■節子への挽歌1654:世の中の綺麗事に「いらっ」ときたりする
節子
今日は挽歌を3つも書いてしまいました。
それでもまだ追いつけません。
節子はいつも、仕事は溜めてはいけないと言っていましたが、まさにその通りです。
先週、子供の頃に、親を自殺で亡くされた方とパネルディスカッションでご一緒させてもらいました。
どんな話をするかをメールで相談しあったのですが、その人は他の人と違って、素直に気持ちを伝えてきてくれました。
すべて私にはすんなりと心身に入ってくるものでした。
たとえばこんな感じです。
彼女は、いまは自死遺族の方たちの相談にも応じているのです。
私は、世の中の綺麗事に「いらっ」ときたりするんですね。まったく、実に全く、同感です。
それが自死でなくても、死別があったご家族に「元気そうで良かった」と声をかける人。
それを温かい、親切と思う世間・・・
「不幸な家と思ったの?笑わないと思ったの?これだけを見て元気そうねと言うの?」そう感じてしまうという死別体験の方。
そんな風に思う自分をとても嫌だ、辛いと、相談される方は言います。
思っちゃえ!それでいい!!と私は思います。
思っちゃえ!それでいい!! 蹴飛ばしてしまえ!!! と私も思います。
その人にパネリストになっていただいた集まりのテーマは「自死を語り合える社会に」でした。
その人は、こう言いました。
かわいそうと思われるのはしんどいですね。人から下に置かれたように思います。私の場合、節子を失ったのは「自死」ではなく「病死」でした。
そんな目線を受けるのをわかっていて語るのは勇気がいることです。
そうなのか、そういうことがあったんですねとただ事実を淡々と受け止めてくれる場所が必要ですよね。
妙に親切にしたり、特別扱いしたりしない関わりがいるなあと思っています。
でも気持ちはこの人と全く同じでした。
同じすぎて、鼓の集まりでは、私はこの思いを深堀りできせんでした。
しかし、この人のおかげで、
そうか、「いらっ」としていいんだと改めて確信できました。
そんなわけで、もし私が「いらっ」としても、許してください。
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