■節子への挽歌1645:アモール
また挽歌が滞ってしまっています。
今日はいくつか書こうと思いますが、いささか思考的な話になりそうです。
アメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、愛について語り合うとしたら、12世紀の吟遊詩人から始めると話しています(「神話の力」)。
それまでの西洋社会での「愛」は、エロスかアガペだけだったというのです。
エロスは生物学的な衝動、アガペは無条件な理念的な人類愛です。
それに対して、吟遊詩人たちは、目と目が合うことから生じる個人対個人の経験をアモールとして語ったのです。
その愛はどこから生まれるのか。
それはまさに個々人の心身としか言えません。心でも身でもなく「心身」です。
キャンベルは、「私たちはほかの人とではなく、そのひとりと恋に陥る。非常に不思議なことですね」と語っていますが、実に不思議な話です。
ユングは「魂はその片割れを見つけるまでは幸せになれない」と言っていますが、片割れを見つけた時に、それが生ずるのかもしれません。
だからこそ、その人との別れは「自らの半身と半心」を削がれるような状況を引き起こします。
愛には、喜びと苦痛が含まれているのです。
キャンベルは、「愛が強ければ強いほど、苦痛も増す」と言っていますが。同時に、「愛はすべてを耐える」とも言っています。
最近、キャンベルのこうした言葉がすんなりと心身に入ってくるようになりました。
しかし、こうしたことはユングの言う集合的無意識として私たちの心身に埋め込まれているのかもしれません。
そういえば、節子と会ったころに、「とばっちり」という短編小説(と言えるかどうかは危ういですが)を書いたことがあります。
片割れ探しに宇宙をさまよう片割れの話だったと思います。
節子も読んだはずですが、ほとんど興味を示しませんでした。
今もきっと書類や資料のどこかに埋もれているでしょう。
キャンベルとの対話の中で、ジャーナリストのビル・モイヤーズは、「人が経験する最悪の地獄は、愛する人から切り離されること」と言っていますが、最近はそうした考えが、その前にある「出会うこと」という体験を忘れているような、身勝手な考えのように思えてきました。
哀しみにも感謝しなければいけません。
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