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2012/03/15

■節子への挽歌1652:後姿の寂しさ

節子
ようやく時間破産から抜け出られました。
まだ宿題は山積みですが、先が見えてきました。
節子がいたら、先が見えたから、出かけようと気分転換の外出を誘うところですが、それができないので、気分転換ができません。
仕方ないので、娘たちを誘って、昼食に近くの回転寿司に行きました。
あんまり気分転換にはなりませんでしたが。

お店を出る時、回転寿司の前で一人で食べている高齢の男性が多いのを見た娘が、お父さんはああならないでよかったねと言いました。
たしかに、そうです。
同じお店でも、女性たちはグループで賑やかに楽しんでいるのですが、男性たちは一人で食べているのです。
一つずつ席を空けて、並んで食べている男性たちの後姿しか見えませんが、なにやらさびしさを感じました。
もしかしたら、その中の一人は私かもしれない気がしました。
もっとも私は、一人で回転寿司のお店に行くことは絶対にできませんが。

伴侶のないまま、歳を重ねることはある意味で辛いことです。
意味のない人生を生きているような気に、時になります。
節子の分まで長く生きたいなどとは思ったこともありませんし、そんなことを誰かが言ったら、その人との関係は多分切れるでしょう。

伴侶がいなくなったことでよかったことはあるでしょうか。
もしあるとしたら、執着がなくなったことです。
物にもですが、それ以上に、生きることに執着がなくなった。
昨日の「心」の話につなげていえば、「心」がなくなったのかもしれません。
執着と心は違うだろうと言われそうですし、事実違うのですが、何となくそんな気がするのです。

伴侶と別れた男性が、もういらないと思って自宅に火をつけて燃やしてしまった事件が昨日テレビで報道されていました。
その気分はよくわかります。

お父さんはああならないでよかったねと娘が話した、あの後姿が頭から離れません。
気分転換のつもりが、なにやら変な思いを持ち帰ってしまいました。
節子、生きているといろいろあるよ。
節子は、毎日が平安なのでしょうね。

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