■節子への挽歌1665:「愛には喜びと苦痛がある」
神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、「愛は生の燃え上りであり、そのなかには喜びと苦痛がある」と言っています。
昨日、「愛」について書きましたので、今日もまた「愛」の話も書いておこうと思います。
「愛」は考えれば考えるほど、奥の深い概念です。
これもキャンベルが紹介している話ですが、ペルシア神話には昔、神と悪魔は一心同体だったという話があるそうです。
おそらくこれは全世界に共通した神話でしょう。
日本でも神と鬼は同義語でした。
突然とっぴなことを言いますが、「愛」は神と悪魔の淵源なのではないかと思います。
喜びがあればこそ苦しさがあり、苦しさがあればこそ喜びがある。
愛は、それを増幅させます。
そして生きていることを実感させてくれます。
キャンベルが言うように、愛があればこそ、人生は燃え上がります。
節子がいた頃の私の生は燃え上がっていたのですが、いまは消えてしまいそうな人生です。
退屈で、無意味で、忙しくて、暇で暇で、無駄な人生だと自分でもわかります。
喜びも苦しさも、ほどほどにしかないのです。
語る価値のない毎日。節子がいた頃とは、まったく違うのです。
この感覚は、体験した人でなければわかってもらえないでしょう。
燃え尽きたのではないのに、燃え上がらない人生を生きるのは、それなりに難しいのも事実です。
自分でも、どう生きたらいいのか、よくわからない。
節子がいないので、相談もできません。
神と悪魔が一体だったころ、そこにあったのは何でしょうか。
正義と悪は、そこにあったのか。喜びと苦痛はそこにあったのか。
たぶんなかったのでしょう。
そこにあったのは、無感覚と退屈だったに違いありません。
最近の私が、まさにそんな心境なのです。
「愛」は考えれば考えるほど、わからなくなります。
節子を抱きしめられれば、こんなにややこしく考えることもないのですが。
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コメント
佐藤様、こんにちは。
以前にもコメントさせて頂いた者です。
「退屈で、無意味で、忙しくて、暇で暇で、無駄な人生」。
とても共感できる言葉でした。
僕も最愛の妻を亡くしてから、日々、無駄な余生をやり過ごしています。
日本人男性の平均寿命を考えると、僕はあと40年弱、独りぼっちで無駄な人生を過ごしていかなければなりません。
妻を喪って1年9カ月が過ぎましたが、この間、気分が高揚することなど一度もありませんでした。
妻が一緒にいてくれた頃は、あんなに日々が充実していたんですが…
「語る価値のない毎日」とありますが、僕は「生きる価値のない毎日」と感じています。
妻を亡くして、遺された人生、楽しいこと、嬉しいこととは無縁だろうと思っています。
そんな僕でも、たった一つだけ楽しみにしていることがあります。
それは、僕が死ぬ瞬間です。きっと笑顔で死んでいけると思っています。
ようやく生き地獄から解放される、そう思えば、きっと笑って死んでいけると思います。
死ぬ瞬間を楽しみにしているのには、もう一つ理由があります。
妻は亡くなる前日の真夜中、最期の言葉を遺してくれました。
「みんな、みんな一緒」。妻はこん睡状態の中で、そんな言葉を口にしていました。
その時の妻のとても安らかな笑顔は今でも忘れられません。
あの時、妻は何を見ていたのだろう。人間は死ぬ瞬間、何を見るのだろう。
とても気になっています。
投稿: ぷーちゃん | 2012/03/31 15:16
ぶーちゃん
いつもありがとうございます。
2つとも私も同じです。
同じ世界なのに、どうしてこうも違った世界に感ずるのかと思いますね。
>「みんな、みんな一緒」。妻はこん睡状態の中で、そんな言葉を口にしていました。
残念ながら私の妻は意識がなかったので、言葉は残してはくれませんでしたが。
でも平安な顔でした。
そして私たちのことを感じているようでもありました。
そして私もその時に、不思議と悲しさを感じなかったような気がします。
投稿: 佐藤修 | 2012/04/01 22:24