■節子への挽歌1660:アーレントとハイデガー
節子
挽歌がどうも書けません。
挽歌だけではなく、時評編も最近は書けずにいます。
この2か月、いささか遊びのない時間を過ごしてきているからかもしれませんが、パソコンに向かう気がしなくなってきているのです。
その代わりに本を読むようになりました。
昔もそうでしたが、仕事が忙しい時ほど、本が読みたくなるのです。
一昨日から、ハンナ・アーレントの「アウグスティヌスの愛の概念」を読んでいます。
アーレントの本は苦手なのですが、どこか魅かれるところがあります。
実はあんまり理解できないのですが、気になる言葉によく出会います。
しかしよりによって、キリスト教嫌いの私が、なぜ「アウグスティヌスの愛」に興味をもったのかは自分でもわかりません。
気がついたら図書館から借りてきた本の中に混ざっていたのです。
覚えていないのですが、どうも予約していたようです。
これもなにかの理由があると思いながら、読み出しました。
間違いであろうと、流れには素直に乗るのが私の最近の生き方です。
節子には驚きでしょうが。
しかし、やはり途中で投げ出したくなりました。
それで最後の訳者の解説を読んで終わりにしようと思いました。
ところがそこに意外なことが書かれていたのです。
アーレントは大学で会った途端に恩師のハイデガーに恋をしたようです。
ハイデガーとアーレントが恋愛関係にあったということを私は知りませんでしたが、それを知って、アーレントへのイメージが変わりました。
これまではただただ彼女の論理的なメッセージに共感していただけだったのですが。
この本の訳者はこう書いています。
アーレントは、ハイデガーとの恋愛関係を、アウグスティヌスの言語世界の用語を使用することによって、「欲求」としての「愛」、「欲望」として把握し、「欲望」の一時性と自己中心性、無際限性と空虚性、またそれにもかかわらず現世に生きる人間にとってのその切実さと魅惑について、内省的に確認しようとしているかのごとくである。そして訳者は、本書は若きアーレントのみずみずしいオデュッセイア(魂の彷徨)を表現していると見るべきではなかろうか、と書いています。
本書はアーレントが20代の時に書いた博士論文なのです。
そして、本書はまさにアーレントの出発の書であり、「彼女の思想的生涯を一貫して規定していくことになる」と訳者は言っています。
最後まできちんと読もうと思い直しました。
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