■節子への挽歌1648:思いを発することの大切さ
節子
「自殺を語り合える社会に」をテーマにした大阪のフォーラムではいろんな人に会いました。
福井からは茂さんが、京都からは福井さんが、わざわざ来てくれました。
このテーマは、最初はぴんと来ませんでした。
しかし昨日のフォーラムで、その深い意味を実感しました。
自死・自殺相談の取り組んでいる僧侶の方が、「死にたい」という気持ちは、なかなか人には言えないものだと言いました。
自死遺族の方は、親が自死したことを誰にもずっと言えなかったし、誰からもずっと言われなかったと言いました。
こう書いてしまうと、当然だろうと思われそうですが、その言葉の含意することは大きいのです。
言えないのは、きちんと聴いてもらえないと思うからです。
言ってしまった後が不安だからです。
でもそれが言えると生き方は変わります。
昨日の話し合いで、そのことがすごくよくわかったのです。
心の奥にあるものを抱えこんでしまっていると、それがどんどん変化していきます。
良い方向に変化することもあるでしょうが、澱んでしまうこともあります。
心の奥にあるものを誰かと本当に共有できたと思えた時も、またどんどん変化していきます。
その場合は、間違いなく良い方向に変化します。
そして安堵が生まれてきます。力が生まれてきます。
これは、私だけではありません。
これまで何回も、そうしたことを体験してきました。
安堵は力を生み出すことも。
今回、私はコーディネーター役でしたので、個々の話にはあまり深く入りませんでした。
しかし、会場でのさまざまな話し合いから、何か大きなものを感じました。
それぞれが発している大きなものを。
それをまともに受け止めたせいか、昨夜は疲れきり、今朝は不安の中で目覚めました。
自殺の限らず、思いを発することは大事なことです。
だれもが、それぞれに本音を発せる場をもっていなければいけません。
私は、いつもだれにも基本的には本音で接しています。
そうした生き方しかできないからです。
節子は、そうした私を選び、支えてくれたのです。
その節子は、もういませんが、私の生き方は変わりません。
誰の本音も引き受ける生き方をしているつもりですが、最近はその重さにへこたれがちです。
でも、時間がたつと、それが自分の支えになっていくから不思議です。
今日は、疲れきって、不安の中で過ごしていました。
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