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2012/03/18

■経済と共済

昨日、共済研究会のシンポジウムを開催しました。
テーマは「改めて共済のあり方を考える」でした。
この『改めて』には2つの思いを込めました。

この「改めて」という表現には2つの意味を込めています。
共済事業はいまマネタリーグローバリズムの流れのなかで、金融資本に絡めとられようとしています。
そのあたりのことはこれまで何回か書きました。
その動きは、TPPに象徴されるように、ますます強まっています。
今年は、国際協同組合年なのですが、日本の協同組合や共済事業は壊されようとしています。
しかしそれは身から出たさびかもしれません。
日本の共済事業の多くは、いまや「安い保険」と言われるように、自らが金融経済事業になってしまっているのです。
それではマネタリーグローバリズムを批判できません。
そうした認識に基づいて、ちょっと立ち止まって、改めて共済事業とは何なのか、共済の理念とはなんだったのか、を考えることが必要ではないか。
これが第一の意味です。

そうした流れの中で、昨年、東日本大震災が起こり、福島原発事故が起こりました。
そして、まさに支え合いや助け合いの仕組みや活動が求められています。
そうした状況の中で、共済事業がこれまで積み上げて来たノウハウやネットワークを活かして、いまここでできることはいろいろとあるのではないのか。
そして、そこにこそ、経済事業化している現在の共済事業とは違った、新しい共済事業の地平が開けてくるのではないか。
それが、「改めて」に込めた2番目の意味です。

こうした認識に基づいての話し合いをしたかったのですが、なかなかそこまでは議論を持っていけませんでした。
しかし何人かの方は問題の所在を改めて認識してくれたようです。

ところで、このシンポジウムに先立ち、共済のイメージをフェイスブックで問いかけてみました。
そのなかにハッとさせられるコメントがありました。
「経済=経国済民=国を治め人民を救うこと」です。それに対するアンチテーゼとして、「共同して助け合うこと」という「共済」があるのではないかと言うのです。
「経済」も「共済」も、いずれも「済」の文字がついています。
つまり、国による済度か共に取り組む済度か、なのです。
この一言で、共済の理念やビジョンがすべて見えてきます。
シンポジウムではその話も最後にさせてもらいましたが、残念ながら会場からの反応はあまり感じられませんでした。
この一言で、私にはすべてが解けたような気がしたのですが、いささか私の想像力が過剰なのかもしれません。
しかし私の姿勢はこれですっきりしました。
私にとってはとてもすっきりしたシンポジウムになりました。

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