■節子への挽歌1651:なぜ人間は心をもったのだろうか
心の話をもう一つ。
最近知ったのですが、人間が「心」という文字は持ち出したのは、3000年ほど前なのだそうです。
つまりそれまでは、心のない生物だったということになります。
ジェリアン・ジェインズの「神々の沈黙」によれば、心のない人間たちは、ただただ神の声に従って生きていたのだそうです。
まあ今の多くの生物がそうであるように、です。
そこには「死」という概念もなかったわけです。
だから生贄が容易に行われていたのです。
それが「運命」だからです。
そこには「自由」はありません。
自由がなければ、悲しみも苦しみもない。恐怖もない。
それが3000年ほど前になって、突如として「心」をもつ、すなわち「自由意志」をもった人間が大量に出現した、とジェインズは書いています。
能楽師の安田登さんの『身体感覚で「論語」を読みなおす』を今日、読み出したのですが、安田さんによると、自由意志をもつと時間が生まれるというのです。
未来を自由に変えることができる、つまり、時間をもつことだというのです。
しかし、それは同時に、未来に対する「不安」と過去への「後悔」も発生させます。
心を持つとは、「希望」と「不安」をもつことなのです。
人間が「心」を持ち出した頃に生きた孔子は、その心とどう付き合えば良いかを『論語』にまとめたと安田さんは書いています。
実に面白い話です。
しかし、なぜ人間は、心などと言うややこしいものに気づいたのでしょうか。
もし私が、心のない存在だったら、どんなに楽だったことでしょう。
希望も不安もないし、生も死もない。
愛もない。
節子もいない。
人間は煩悩に悩むために、心を手に入れたのです。
最近、心って何だろうと思うようになりました。
心は、個々の人間を超えているのではないだろうかと。
もしかしたら、此岸を超えているのかもしれません。
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