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2012/04/06

■30年前の原発事故への警告

最近の原発再稼動への動きに関しては、テレビなども疑問符を投げかけながらの報道が増えていますが、そんな事はお構いなしに既成事実をどんどん積み上げている政府のやり方には驚きを感じています。
福島原発事故のしっかりした事実確認ができないままに、なし崩し的に安全性確認の段取りを積み上げてきています。
古舘さんにしても、ほかのキャスターにしても、本気で異議申し立てをする気はないのでしょう。
アリバイ工作的な発言に終わっています。

そもそも日本における原発推進は、その「安全性神話」に依存して、学者や技術者やマスコミなどのほとんどが、それに疑問をはさまなかったことに大きな問題があります。

先日、ある集まりでかなり信頼できる技術者の皆さんと話し合っていた時に、今回の原発事故が起きるまで、燃料棒を原子炉から抜けば原発は停止し安全になると思っていたとある大学の名誉教授が話されました。
同席していた大企業出身の高名な技術者の方が、私もそう思っていて反省していたが、それを聞いて私だけではなかったとホッとしたと話されたのです。
お2人とも、とても誠実で見識があり、実践的な活動もされている研究者です。
その会話に私は唖然としました。
その気になれば、そんなことは1970年代の新書レベルの本でわかったはずです(たとえば武谷三男さんの岩波新書「原子力発電」)。
そこで、技術者の人たちはやはり他の分野には無関心なのですね、むしろ文科系のほうが知っているかもしれませんね、と余計な一言を発言させてもらいました。
そこに含意させた「とげ」はたぶん伝わらなかったでしょうが。

原子力発電のコストのほうが火力や水力よりも高いことも、1980年代にきちんと学ぶ姿勢があった人にはわかっていたはずです。
しかし経済学者は、技術者によるそうした問題提起は「想定外」の世界に葬り去りました。
そこまで考慮すると、原発は産業的には成り立たなかったからです。
まさに新古典派経済学の「論理の組み立てに都合のいい小さな世界での議論」の典型です。
そのあたりの経緯は、アメリカにおける原子力事故に関する賠償保険制度の検討の経緯をみればよくわかります。
これらの情報は1070年代には日本でも誰でも読める一般的な書籍で出回っていました。

たとえば、いま私の手元にある1冊は室田武さんの「原子力の経済学」(日本評論 1981年出版)ですが、そこにもそうした話は紹介されています。
長くなりそうなので、明日に続けますが、その本の「あとがき」で室田さんは次のように書いています。

さきに『エネルギーとエントロビーの経済学』という小著を出版した際、そのはしがきにおいて、私は、次のように書いた。
スリーマイルアイラソドで起こったこと、あるいはそれをはるかに上回る終末世界は、明日にでも、福島県で、あるいは茨城県で、また静岡県、福井県、島根県、愛媛県で発生しうることである。
「ほとんど起こりえない」と専門家が保証していたこと以上のことが、すでに現実に起きてしまったのだから、私たちは、「いつでも起こりうる」という前提に立って、あらためて私たちの生活を考え直す方がよさそうである。

30年前にすでにこうした警告が出ていたのです。
本当は「安全性神話」などもうとっくにこわれていたのです。
それにもかかわらず、みんなそれに依存して思考停止していたのです。
ちなみに、「エネルギーとエントロビーの経済学」は1979年の出版で、かなり読まれた本です。
きちんと物事を考えていた技術者や経済学者であれば読んでいなければおかしい本です。


原発の安全神話を否定しなかったことの問題を書こうと思っていたのに、話が違う方向に行ってしまいました。
その話は、明日書きます。
原発の話は、書きだすと際限なく、しかもどうしても感情的になってしまうので、うまくかけないのが問題です。
いやはや困ったものです。

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