■節子への挽歌1683:別れの悲しみと不在の寂しさ
節子
今朝も早く目が覚めてしまいました。
最近、どうもまた夜中に目が覚めるようになってきています。
春だからでしょうか。
節子がいなくなってから4年半以上経ったせいか、別れの悲しさはあまり感じなくなっているのですが、逆に不在の寂しさは強まっているような気がします。
それらは一緒くたにしがちですが、かなり違うような気がします。
節子のことを思い出し、考えることが、一番の供養だと思っているので、
朝早く目が覚めると、まあ、そんな他愛のないことを考えてしまうのです。
以前なら、そんなことを隣に寝ている節子に話しかけるのですが、今は話す相手もいないので、挽歌に書いているわけです。
時がもし癒すことができるとしたら、それは別れの悲しみです。
しかし、不在の寂しさは、時が経つほどに強まります。
それはいまなお日々新たに発生するからです。
昨日会った人は、桜の季節はとてもいやだといっていました。
きっと夫婦で楽しんだお花見を思い出すからでしょう。
私もまだお花見には行けません。
不在を感ずると、別れの悲しみさえ思い出しかねません。
別れの悲しみと不在の寂しさは、つながってもいるようです。
その一方で、時々、この挽歌にも書いていますが、節子が近くにいるような、あるいは私の心身にも入り込んでいるような感覚はあります。
別れの悲しみや不在の寂しさをどうにかして緩和しようという、精神の防衛機制の働きかもしれませんが、それは確かに感じます。
しかし、だからといって、不在の寂しさが薄らぐわけでもありません。
むしろ不在の寂しさと同行2人の気分は、比例しているのかもしれません。
このあたりがややこしくて、一筋縄ではいかないのです。
論理的な矛盾はあるのですが、当事者としてはすんなりと受け容れられます。
不在の寂しさは再会への期待を高めます。
先日、この挽歌にコメントを寄せてくださった方が、
「たった一つの望みは、一日も早く逝くこと。妻と再会すること」
と書いていましたが、私も再会を楽しみにしています。
| 固定リンク
「妻への挽歌09」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1800:ささやかな日常の営みこそ輝いていた(2012.08.11)
- ■節子への挽歌1799:お人好し(2012.08.11)
- ■節子への挽歌1798:危うく熱中症?(2012.08.10)
- ■節子への挽歌1797:死んでいるのに、生きている(2012.08.10)
コメント
今日の挽歌、とても共感しながら読ませていただきました。
「別れの悲しみ」と「不在の寂しさ」。
僕は妻を喪って、1年9か月が過ぎました。
亡くなった当初は、胸が引き裂かれるような、身体の半分を削ぎ落されたような感覚に襲われ、通夜・告別式の日以降、毎日毎晩、号泣していました。
「襲われる」という表現がぴったりでした。その感覚は僕の内部で起こっているのではなく、外部から襲ってくる。そんな感じでした。
「号泣」という表現も決して誇張ではありません。妻が亡くなって、子供のいなかった僕は独りぼっちになりました。独りぼっちの家の中、僕は声を張り上げて泣いていました。
一睡もできない夜が何度もありました。そんな日は朝まで泣き続け、泣き腫らした目で出勤していました。
仕事からの帰り道。雨が降っていたりすると、傘で顔を隠して泣きながら帰宅しました。
雨が降っていない日は、自宅に着くまで泣くのを我慢しましたが、玄関を開けた瞬間に涙がドッと溢れてくる。そして嗚咽が止まらない。
そんな日々が1年以上続きました。
その後、激しい悲しみの感情が薄れると、襲ってきたのは「不在の寂しさ」です。
心にぽっかりと穴が開いたような、周囲の世界に現実感が感じられないというか、自分がふわふわと浮いているような。言葉で言い表すことは難しいですが、今はそういう感覚を抱えています。
今日の挽歌を読ませていただいて、この言葉で表現しようのない感覚は、妻がいないことへの寂しさなのだと理解しました。
一緒に笑い合える相手、ふとした瞬間に目が合うと、お互いが自然と笑顔になってしまう相手。
人間は、そういう相手が一人でも傍にいてくれれば、どんなに辛くて苦しい人生でも、乗り越えていける。
妻は僕にそういうことを教えてくれました。
妻が傍にいてくれたからこそ、辛い人生も乗り越えてくることができました。
そんな妻がいなくなった寂しさは、やはり言葉で表現することは難しいです。
たぶん、この寂しさは、僕が死ぬまで抱えていくものなのでしょう。
一日でも早く、あちらに逝きたいと願っています。
投稿: ぷーちゃん | 2012/04/11 14:44
佐藤様
桜の季節ですね。家の近くの桜並木が眼に入りますが、悲しいかな心から風情を楽しむ気持ちにはなれません。
不在の寂しさは日々深まると、私も実感しています。彼が旅立った直後はいろいろな思いがあふれていましたが、最近の涙は不在の寂しさからです。
先日のマリア・テレジアのこと、当たり前ですが、どんな地位にあったとしても愛する人を失った後の思いは「愛」の前では一緒ですね。
そして映画「マーガレット・サッチャー」でも認知症になった彼女が夫に先立たれ、その喪失と孤独の日々を表現していました。
>節子が近くにいるような、あるいは私の心身にも入り込んでいるような感覚はあります。
>別れの悲しみや不在の寂しさをどうにかして緩和しようという、精神の防衛機制の働きかもしれませんが、それは確かに感じます。
>しかし、だからといって、不在の寂しさが薄らぐわけでもありません。
本当にその通りです。私も「当事者」ですから。
同時に、(冒険なんて今の私にはあまりにも遠い言葉ではありますが、)
彼が私に最後まで伝えてくれた愛の力を思い出すと、何か生きる意味を見出そうという思いが芽生えるときがあります。
でも、不在の寂しさに圧倒される毎日なのです。
patti
投稿: patti | 2012/04/12 02:28
ぶーちゃん
patti
いつもありがとうございます。
書いたことが何倍にもなって返ってくる。
自分で書くよりも、逆にお2人の文のほうが、自分の心をより正しく表現しているような気になることが少なくありません。
感謝します。
いつか、お会いできますように。
此岸でも彼岸でも、まあどちらでもいですが、きっとお会いできるでしょう。そんな気がしてきています。
投稿: 佐藤修 | 2012/04/19 16:23