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2012/04/18

■世界が見えなくなってきているような気がします

最近、新聞を見ていて感ずるのですが、報道されているのは大事件や話題になりやすい記事ばかりで、実は社会で起こっているはずの、そうした「事件の萌芽」を予知させるような現場の動きはほとんど出てきません。
私は新聞の小さな記事が好きなのですが、最近はそうした記事も少なくなりました。
あっても芸能ニュースや生活情報のようなものが多いです。
それにどの新聞もほぼ同じようなものばかりです。
おそらく新聞社には現場を回る記者が少なくなったからでしょう。
テレビは、さらにひどく、新聞記事の紹介のような報道が多くなりました。
事実を発見するという報道の姿勢は薄れ、話題になったことの話題をさらに大きくするような報道や読者の好奇心に合わせたような記事ばかりです。
現実に何が起こっているのかが見えにくくなっているような気がします。

ネットを通じて流れている情報も、かなりの偏りがあります。
それにネットだとなかなか関心事以外の情報が目につきにくい気がします。
こういう情報環境にいると、何やら世界の成り立ちはいとも簡単に思えてきてしまいます。
その上、問題が複雑になってきているのに反比例して、その解釈は白か黒かのような単純化が進んでいます。
たとえば原発もTPPも賛否がわかれ、いずれの側もその論拠はかなりシンプルです。
ですから話し合いも成り立ちません。
もしかしたら自分では考えていないのではないかと思うくらい、紋切り型の賛成論や反対論が多いです。
みんな世論の歯車になってしまっているようです。

もう一つの「やりきれなさ」は、言葉と行動が切り離されていることです。
たとえば、テレビに出ている人たちは盛んに原発再稼動は急ぎすぎだといいますが、政府はそんなことなど気にしているようには思えません。
国際社会の呼びかけを気にせずに、「人工衛星打ち上げ」を決行した北朝鮮と日本の政府はなんら変わることはないと思えるほど、世論や識者の意見は無視されています。
時々、異論を唱える政治家もいますが、TPPの時のように結局はただ意見を言うだけでそれが無視されても行動を起こしません。
テレビで話している人たちも、本気でそう思っているのなら行動を起こせといいたいですが、そういう思いは感じられませんし、行動を起こす気配はありません。
ただただ観察し、他人事で賢く語っているだけです。
現場の声や重いなどとは全く無縁です。
言葉が力を失い、行動(現実)と切り離されてきているのです。

しかも、その言葉はもはや「個人の言葉」ではありません。
気をつけて聞いていると、ほとんどの人が「同じ言葉」を語っています。

先週、 「神々の沈黙」と言う本を読みました。
その本によれば、人間が意識を持ち出したのは3000年ほど前だそうです。
そして今、私たちは、「その意識」を手離そうとしているような気がしてなりません。
意識は「言葉」によって育ってきました。
言葉の力が無くなってしまえば、意識がなくなるのは当然です。
そして、見えない世界の中で生きていくには、神々の指示に依存したくなります。
また「神々の時代」が到来するのかもしれません。

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