■節子への挽歌1694:自責の念
節子
今日は寒いので何もやる気が出ずに、あったかいリビングで録画していたテレビ連続ドラマ「推定有罪」をみてしまいました。
最終回は今夜放映なのですが、これまでの4回分をまとめてみました。
テーマは「冤罪」ですが、冤罪に関わるさまざまな立場の人、冤罪当事者と家族、事件の被害者遺族、警察、裁判所、弁護士、報道関係者などの生活や思いが絡み合った社会派人間ドラマです。
そこに政治まで絡ませ、さらに犯罪被害者支援法案の話まで出てきます。
ストーリーも面白いのですが、私の心に響いたのは、犯罪被害者の家族の「自責の念」です。
もし自分がこうしていたら家族の犯罪被害を避けられたかもしれないと語る場面を見ていて、先日のフォーラムで話した「自責の念」を思い出しました。
やり場のない怒りや悲しみの持っていき場は、やはり常に自分なのです。
いやたぶん、やり場があったとしても、やはり自分を責めることが多いでしょう。
そんな気がします。
自責の念は、しかし自らを責めることではないのかもしれません。
怒りや悲しみを、自らで引き受けることで、被害者と一体化することかもしれません。
このドラマを見ていて、そんな気がしてきました。
つまり、「自責の念」とは自らを浄化し安堵させる行為なのです。
私の場合、節子を治せなかったのは、私の責任だと思うことで、問題を「私たちの問題」にできるような気がします。
うまく説明できませんが、私たちの人生は私たちが決めたのだと思えると、なぜか少し安堵できるのです。
もちろん、その一方で、胸が痛くなり、時に頭のなかが白くなってしまうほどに、自責の念が後悔や自己嫌悪につながることもあります。
その時には、全身を大きな不安感が襲ってきます。
病死でさえそうですから、事故や犯罪被害の場合は、自責の念のもたらす不安感は安堵を吹っ飛ばすほどの大きさでしょう。
でも、他者を責めるよりも、その不安感に耐えたほうが、たぶん安堵できるでしょう。
自責の念は、怒りや憎悪にではなく、赦しにつながるからです。
他者を責めたり憎んだりすることからは、安堵は生まれないでしょう。
そんな気がします。
ドラマで自責の念を語るシーンを見ていて、涙が出ました。
そして、自責の念をもっと大事にしようと思いました。
ドラマをみていても、いつも節子をも出だしてしまうのはなぜでしょうか。
さて今夜は最終回です。
どういう結末になるのでしょうか。
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