■節子への挽歌1676:演じている自分
節子
先日開催した「自殺のない社会に向けてなのができるか」のフォーラムのテープ起こしをしていました。
当日の参加者の発言によくでてくるのが、「演じている自分」の話です。
みんなの期待を裏切らないように、頼りになる夫、強い父親を演じていて、そこから抜けられなくなってしまっていたという話です。
そういう話をテープで改めて聴きながら、私たちにはそういうのが全くなかったなと思いました。
最初から私たちは、お互いを素直に見せ合っていましたので、建前と実体の区別がなかったのです。
頼りにならない、わがままでいい加減なお互いを見せ合っていたような気がします。
それでも節子は、私を信頼していましたし、私も節子を信頼していました。
あえていえば、私よりも節子のほうが見栄っ張りだったような気がします。
というのは、節子が後悔していたことが一つありました。
私たちは途中から、私の両親と同居したのですが、節子は「良い嫁」になろうとしていたことを、両親を見送ってから話してくれました。
私から見れば、あんまりそんなようには見えませんでしたが、そうだったようです。
たしかに節子は私の両親からは、私以上に好かれていました。
私にとって、節子は別に「良い妻」だったわけでもありません。
欠陥だらけの妻でした。
にもかかわらず、節子は私には最高の妻でした。
それは、節子はいつも「地」で接してくれたからです。
それで、私も素直に自分そのもので付き合えたのです。
だからまあ、夫婦喧嘩も多かったのですが。
私は、すぐに感情が顔に出ますから、演ずることのできない人間です。
そればかりか、自分でない役柄を演ずることができないのです。
節子もそうでした。
だから私たちには溝は全くなく、悲しみも希望もシェアできたのです。
しかし、シェアしていた相手がいなくなってしまったらどうなるのか。
悲しみは倍になり、希望は半分になってしまったのでしょうか。
たぶんそうはなっていません。
昨日、挽歌を書いてから少し考えてみたのですが、
悲しみも希望もなくなったというのが結論です。
悲しみも希望もなくなるとどうなるのか。
答はすぐそこにありそうな気がしますが、もう少し考えてみなくてはいけません。
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コメント
離婚してパートナーを失った私の希望は半分になったのか
悲しみは倍になったのか
そもそも結婚していた時希望はあったのか
悲しみは分かち合えたのか
(それができなかったから離婚したのでしょうね)
全く異なる理由でパートナーがいない私がこの挽歌から離れられないのは自分には手に入れられない感覚を感じたいからなのだと思います
感じれば感じるほど淋しい気はするのですが・・・
思えば私も演じられない人間です
かと言って元結婚相手には本当の地で接する事もできなかった
(だから離婚したんだって話ですね。さっきから(笑)
ここにくると自分にない存在の大きさに気が遠くなります
でもどこかで求めているんだろうな~
求め続ければいつか手に入るのでしょうか。ありがちな説ですが(笑)
私の希望ってなんなのだろう
そもそも希望って・・・?
やっぱり考えるのは苦手です
すみません、いつも自分の事ばかりコメントしていますね
自分の事を見つめたくてここに来るのかも知れません
オフィシャルのブログもこれから拝読させていただきます
いつもつい先にこちらに来てしまいます
投稿: 大場英子(旧姓佐藤) | 2012/04/06 12:55
返事が遅れました。
前にもコメントを頂きましたが、
まさか、あの英子さんだとは思いもしませんでした。
今回初めて気がつきました。
まさか読んでくださっているとは思いもしなかったからです。
いやいやお恥ずかしいかぎりです
いつかまたイタリアンを食べながらでも。
ありがとうございました。
投稿: 佐藤修 | 2012/04/19 16:14