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2012/04/28

■節子への挽歌1699:三春の滝桜

節子
福島の「三春滝桜」がいま満開のようです。
きれいな夜景がテレビで放映されていました。
節子の病気が小康状態になった年に、各地の桜を見て回りましたが、三春にも行きました。
いつだったかなと私のホームページで探したのですが、なぜかどこにも見つかりません。
写真もあったのにと写真も探しましたが、出てきません。
なんだかキツネにつままれたような気がします。
それで、昨日、この挽歌を書きだしたのですが、途中でストップしてしまっていました。
今朝も少し探しましたが出てきません。
困ったものです。

ところで、網膜には盲点があるというのは有名な話です。
しかし、その盲点は脳の働きで埋められて、私たちの視界には欠落部分は発生しません。
それと同じように、私たちの記憶もまた、欠落部分をうまくつなぎ合わせて、一つの物語として「想起」させてくれるのだそうです。
ですから思い出とは、脳による創作ともいえるわけです。

三春の桜は創作なのか。
そんなことはありません。
兄夫婦と一緒に行ったので、間違いありません。
にもかかわらず私のパソコンの中には見つからないのです。
なにしろ私は、最近はすべての記録をパソコンに入れてしまっているのです。
写真もプリントアウトせずにデータだけがパソコンにあります。
節子は、プリントアウトしない写真は写真と認めませんでしたので、たぶんどこかに三春の桜の写真もあるでしょう。
節子はアルバム整理が好きでしたから。
しかし、私はアルバムではなくパソコンの画面で映像を見るのが好きなのです。
というよりも、最近はともかくすべてをパソコンに収納するようになっています。
私のすべての記録がつまった、私のお墓をつくろうという思いなのです。
言い方を変えると、私のパソコンはいまや私以上に私のことを知っているのです。
しかも、そのパソコンはきちんと管理していけば、決して死なないのです。
娘たちにとっては、私のことはすべてパソコンにあるというわけです。
しかも縁を切りたくなったら、簡単にすべてを消去できるのです。
これって、なんだかとても魅力的な気がします。

もし仮に、もう少し早くパソコンのレベルが今程度になっていれば、節子のすべてをそこに移して、不死の節子を生み出せたかもしれません。
そして、技術の発展によって、その不死の節子が蘇ったかもしれません。
そんなことを時々思います。

話がずれてしまいましたが、なぜ、三春の桜の写真や記録がないのか。
もしかしたら、三春には行っておらずに、兄夫婦のことも私の脳の創作物かもしれません。
いや、そもそも節子は実在したのだろうか。
いやはや、寝不足のせいか、今日は頭が混乱します。

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