■節子への挽歌1670:人間の本性の蘇生
節子
数年前に話題になった「災害ユートピア」という本には、昨年の東日本大震災のような大惨事が起こると、その直後に「見ず知らずの人たちの間にさえも、お互いに深く気遣い合う社会」が、つかの間とはいえ、発生する事例がたくさん紹介されています。
その理由のひとつは、生きる上での課題が単純化されるからだろうと思います。
その本にこんな文章があります。
セラピーの分野では、災害の帰結として、例外なくトラウマが語られる。それは、耐えがたいほどもろい人間性や、自らは行動せず、誰かが何かしてくれるのを待つといった、典型的な被災者像を暗示している。災害映画やマスコミも、災害に遭遇した一般市民を、ヒステリックで卑劣な姿に描き続けている。「災害ユートピア」という本の著者は、それがいかにばかげた「つくりごと」であるかをたくさんの事例で示してくれます。
そして、そうした状況のなかでは、セラピストの言葉などはほとんど役に立たず、そうした世界では被災者のみならず、そこに接した人たちもまた素直になるがゆえに、「人間の本性」が蘇生し、つかの間のユートピアが生まれるというのです。
私はとても共感できました。
共感できた理由は、節子との別れを経験したからだろうと思います。
節子を失った時、私にはすべてのものが意味を失い、価値を失ったような気がしました。
愛する人を失った時に、おそらく多くの人はそう感ずるでしょう。
その喪失感を埋めてくれるものなど、何もないのです。
つまりすべてのものは、価値を失ってしまうわけです。
できる事はただ一つ、自らに素直になるだけです。
素直になると、まさに「人間の本性」に気づきます。
素直に悲しみを発現させ、素直に怒りも出せるようになります。
悲しみや怒りだけではありません。
慈しみの心もまた、素直に蘇ってきます。
同じように隣に悲しむ人がいたら、気になりだします。
それも決して上からの気持ちではなく、悲しみを分かち合おうという自然の気持ちからです。
社会に生きる生き方ではなく、生命に素直に生きる生き方になるのです。
そうすると、周りの人たちの見え方が変わってきます。
きれいごとを話している人たちの、悲しさも伝わってきます。
最初はそれが生きにくさにもなっていきますが、そのうちに生きやすさに転じます。
そしてみんなそれぞれに「重荷」を背負っていることにも気づきます。
大災害の直後、みんなその重荷をおろして、素直になるのでしょう。
しかしすぐにまた背負ってしまうわけです。
幸いに私は、節子との別れで、重荷を二度と背負わずにすむようになりました。
人は、本来、生きやすい存在なのです。
エデンの園の話に、最近、とても共感できるような気がしてきています。
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