■節子への挽歌1693:至福の人生
節子
前にも引用したことがある、ジョーゼフ・キャンベルは、
「心の底で自分を捉えるもの、自分の人生だと感じられるもの、それが至福であり、それに従えば扉は開く」と書いています。
お金で得た幸せは、お金がなくなれば消えてしまうが、至福は決して消えることがないとも書いています。
至福は消えることがないのか。
私は若い頃からずっと素直に自分を生きてきました。
キャンベルが言う「心の底で自分を捉えるもの」に従って生きようとしてきました。
ある意味では、大人になりそこない、社会からはみ出したりしながら、それでもなんとか、その生き方を大切にしてきました。
節子が、よく続いたわね、と言ったように、会社生活も25年間も続けました。
社長と大論争したり、辞表を書けと2回も言われたりしながらも、妥協することなく、自分を貫いてきました。
その後、急に辞めたくなった時には、辞表を撤回するように言われましたが、撤回せずにそれも貫きました。
ですからキャンベル風にいえば、至福の人生を送ってきたわけです。
ジェインズ風にいえば、時折心にひびく神の声のままに生きてきたとも言えます。
お金も地位もまったくないのに、私の毎日は至福の日々だったのです。
それがいつのまにか、節子こそ自分の人生だと感ずるようになってしまいました。
私の生きる意味を、節子が与えてくれる。
つまり、依存型の人生に変わっていたわけです。
自分の人生を節子にゆだねてしまった。
そのために、節子がいなくなった途端に、「自分の人生」を感ずることができなくなりました。
そして「至福の人生」は消えてしまった。
どこで、なにを間違えたのでしょうか。
節子は、私への試練だったのか。
節子のあったかい笑顔を思いながら、いまは果たして至福なのかどうか、迷います。
今日、ユカから、お母さんがいなくなってもお父さんの生活は何も変わっていない、もっと自立しなければと、怒られました。
そういえば、節子もそんなことを言っていました。
まあ節子もユカも、私がそんな生き方が出来ないことはよく知っているのでしょうが。
キャンベルの言っていることは正しいのかもしれません。
そんな気もします。
もしかしたら、今もなお、私は至福の人生のなかにいるのかもしれません
至福の人生も、それなりに寂しく悲しいものなのかもしれません。
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