■節子への挽歌1671:人間は死ぬ瞬間、何を見るのだろう
節子
この挽歌にも、いろんな人がコメントをくれます。
それで元気づけられることも少なくありません。
最近、ぶーちゃんと称する人から時々コメントをもらいます。
一昨年。伴侶を亡くされ、以来、「気分が高揚することなど一度もない人生を送っているといいます。
「妻が一緒にいてくれた頃は、あんなに日々が充実していたんですが、妻を亡くして、遺された人生、楽しいこと、嬉しいこととは無縁だろうと思っていま」と書いていますが、私も同じような気がしています。
しかし、そんなぶーちゃんにも、楽しみにしていることが一つだけあるというのです。
「それは、僕が死ぬ瞬間です。きっと笑顔で死んでいけると思っています」
ようやく生き地獄から解放されるからですが、それだけではありません。
ぶーちゃんはこう書いています。
妻は亡くなる前日の真夜中、最期の言葉を遺してくれました。節子はどうだったろうか、
「みんな、みんな一緒」。妻はこん睡状態の中で、そんな言葉を口にしていました。
その時の妻のとても安らかな笑顔は今でも忘れられません。
あの時、妻は何を見ていたのだろう。人間は死ぬ瞬間、何を見るのだろう。
とても気になっています。
確かに節子も平安な表情をしていました。
残念ながら私は気が動転していたのか、あんまり覚えていないのです。
たださほど悲しいとは思っていなかったような気がします。
そんな感情は通り越していました。
それに、節子が息を引き取ってからの数時間は、ほとんど記憶がありません。
節子と約束したことも果たせずに終わってしまいました。
私の腕の中で息を引き取ったわけでもありません。
その瞬間、そしてその直後、私は何をしていたのでしょうか。
悔いが残ります。
しかし節子も安らかな表情だったような気がします。
節子は何を見ていたのだろうか。
私も気になります。
しばらくして、節子は彼岸で白い花に囲まれて、幸せそうにしていると大日寺の庄崎さんから教えてもらいました。
しかし、幸せのはずがありません。
なぜなら彼岸には私がいないのですから。
私も彼岸に行くのが楽しみです。
まあ節子が待っているとは限りませんが。
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