■節子への挽歌1666:訃報を聞くとなぜか心が沈みます
挽歌が書けなくなりました。また4日ほど書けずにいます。
どうしたことでしょうか。
先ほど、意を決してパソコンに向かい、書き出そうとしたら、友人から父を見送ったというメールが届きました。
友人は50歳くらいですから、そのお父上は私よりもかなり年上でしょう。
私はもちろんその方にはお会いしたこともありませんが、ちょっと気になっていたのです。
友人からほんの少しだけその親子関係を聞いていたからです。
父上の話をした時に、彼は涙ぐんだのです。
深く愛し合っていたのだろうなと感じました。
愛し合えばこそ、うまくいかないこともある。
そんな余計な推測までさせられる仕草でした。
なぜかまた力が抜けてしまい、挽歌を書こうという気が失せてしまいました。
このごろは、ともかく「気」が弱くなっています。
人の死が悲しいわけではありません。
にもかかわらず訃報を聞くとなぜか心が沈むのです。
特に今日は、友人のことを思うと哀しいです。
とても哀しい。
私の心身から何かが抜けていく、そんな気がしてなりません。
挽歌を書くのは明日にします。
明日と明後日で、思い切りたくさんの挽歌を書こうと思います。
挽歌を書いていないのが、もしかしたら、私の「気」が不安定になっている理由かもしれません。
でも今日はとても書く気にはなれません。
祈りたい気分です。
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