■小沢さんのけじめ、検察のけじめ、マスコミのけじめ
小沢事件の判決は無罪でした。
昨日は判決が気になって、ずっとテレビを見ていました。
無罪になって安心しましたが、裁判そのものが有効だとされたのは、がっかりでした。
報道されているように、小沢さんの言動にはすっきりしないものがあります。
それはそうでしょう。
しかし裁判は、人格や生活を裁く場ではありません。
ある特定の「事件」を裁くものです。
そうした視点から考えれば、小沢さんの言動以上におかしい言動はあります。
そもそも検察が嘘をつくことによって、強制起訴されたとも思えます。
それによって、どれだけの費用と時間が浪費されたことか。
それ以上に、日本の政治が停滞したことをどう考えるか。
そういう視点は忘れてはいけません。
小沢さんの政治家としてのけじめを説く人は多いですが、けじめをつけるべきは、検査とマスコミだろうと思います。
とくに文書捏造を行った検察関係者が起訴されないことに怒りを感じます。
そして、これほどの小沢憎悪状況をつくりあげたマスコミやそこに登場しているコメンテーターやキャスターも、少しは反省して欲しいものです。
日本では、いまや「反省」や「謝罪」の文化は消えつつあるのがさびしいです。
福島原発事故も、まだ何の総括も出来ていません。
にもかかわらず、原発再稼動に動き出しています。
そこには「反省」も「謝罪」もありません。
あるのは居丈だけな「恐喝」と「弁解」です。
昨日、敦賀の人と電話で話しました。
夕方大飯原発の説明会が行われる前です。
みんな仕事がなくなってきているので、大変だそうです。
再稼動しないと仕事はなくなると言われれば、反対もそうはできなくなりかねません。
原発を止めても仕事が生まれることを示す努力をすればいいだけの話ですが、その努力は意図的に行われていません。
自然エネルギーコストを高くするのと同じです。
コストなどは、どこまでを考慮するかで、いくらでも変えられます。
しかし、自ら考えることなく与えられた知識を覚えるのに慣らされてきた人たちは、相変わらず学者や管理者の出す数字に従います。
データなどは作られたものなのですが、知性のない人にはそれが大きな強制力を持っているのです。
小沢さんにけじめを要求するのであれば、同じように検察とマスコミにもけじめを求めるべきです。
ちなみに、私はいずれにもけじめは求めません。
けじめるのは、自ら、です。
けじめを求めるって、一体なんなのでしょうか。
けじめるべきは自分であって、他者にではないでしょう。
こんな社会に生きるのが、最近はとてもいやになってきています。
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コメント
スターリン主義も、ルイセンコ主義も滅んだどころか
昔よりも一層と色鮮やかに、現代の日本を飾っているかのように見えます
投稿: 2933 | 2012/04/28 02:38