■原発の「安全神話」は消えていないようです
今朝の朝日新聞のトップの見出しは、「大飯原発、来週にも安全宣言」です。
記事によれば、来週中にも大飯原発の安全を宣言するそうです。
『安全』とは一体何なのか。
原爆を体験した日本人は、「放射能アレルギー」が強かったと思います。
しかし1970年代の日本人の前には、それを忘れさせるような「豊かな生活」の人参がぶら下げられました。
そして、「原子力の平和利用」という言葉で、原爆と原発を別物だと思うようになりました。
原発への反対運動は残りましたが、世論はなし崩し的に「安全神話」を信奉するようになってきました。
その上、原発が「エコ」などというとんでもない思いさえ植えつけられたのです。
テレビでは草野さんのようなアナウンサーが、それに加担しました。
その草野さんがまだテレビに出ているのを見ると、この人には脳があるのだろうかとさえ思います。
また話がそれそうですね。反省、
実は、私自身、「豊かな生活」という人参に魅了されそうになった時期がありました。
それに気づいたのは1980年代に入ってからです。
福島原発事故は原発の「安全神話」を壊したといわれました。
とんでもない、安全神話はもうとっくに壊れていたのです。
それについては昨日少し書きましたが、1970年代にはすでにそえは明らかになっていたはずです。
1980年代にはもしかしたら、エネルギーのあり方が変わるかもしれないという期待が生まれましたが、経済につながった技術者たちは、結局はそうした議論を脇に追いやっていきました。
そして、私は会社を辞めました。生き方を変えようと思ったのです。
1999年、茨城県東海村のJCOがウラン加工工場臨界事故を起こしました。
その事故野調査委員会の報告の冒頭には、「原子力の『安全神話』や観念的な『絶対安全』から『リスクを基準とする安全の評価』への意識の転回を求められている」と書かれてありました。
そこでも原発の安全神話は否定されていたのです。
それを知らない技術者がいるということ自体、私には信じ難いことです。
そもそも「絶対安全」などという概念はありえません。
技術の安全性とは、安全でないことを前提にして、安全でなくなった時にどうするかを考えることだろうと思います。
安全神話は、安全性への検討を封じ込めるものでしかありません。
「想定外」という言葉が一時期よく使われましたが、安全でないことを想定の外部に追いやって、安全の状態の中で安全性を考えるような議論が横行していました。
発電コストの議論も全く同じ構図です。
そしてそれは、再稼動させるための「安全基準」を策定するという、今の政府の発想に重なっています。
つまり、あれだけの事故を体験しながら、まだ発想を変えていないのです。
そんなことをする人は、馬鹿と言うよりも、犯罪者と言うべきだろうと思います。
また話がそれそうですね。自重、
しかし、首相がそうした発想をするということは、まだ日本では原発の安全神話が消えていないということなのでしょう。
そして、同時に「豊かな生活」信仰も捨てていないのでしょう。
事実、脱原発か雇用か、とか、脱原発か停電回避か、などといったおかしな二者選択がなんの不思議もなく語られています。
次は脱原発か雇用(仕事)かの話を少し書きたいと思います。
それは決して対立構造にはないのです。
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