■節子への挽歌1701:読書三昧
節子
大型連休だそうです。
私にとっては、世間からのノイズから少しだけ隔離されて、一人で過ごす時間がとれる少しだけ贅沢な時間です。
今年はめずらしく読書三昧です。
5月の連休に読書三昧などとは、私にとってはたぶん初めての体験です。
読み出したのは、「ユーザーイリュージョン 意識という幻想」という500頁を超える厚い本です。
先日、やはり同じように分厚い「神々の沈黙」という本を読んだのですが、その本で知った本です。
いずれも、人類の意識を扱った壮大な本なのです。
節子との別れがなかったら、もしかしたら2冊とも読まなかったかもしれません。
本といえば、私のとっては大いに悔いになっていることがあります。
ネグリの「マルチチュード」という本です。
この本に出会ったのが、節子が病気療養中です。
あまりに面白いので、節子の病床の横で読みふけってしまっていました。
節子には少し寂しかったかもしれないと、今にして思うと後悔の念が生じます。
しかし、節子と話すのを忘れて、読みふけっていたことが何回あります。
私でさえ思い当るほどですから、節子はもしかしたら怒っていたかもしれません。
でも、その時には、まさか節子が逝ってしまうとは思ってもいなかったのです。
あまりの愚かさと身勝手さに、このことは思い出すたびに胸が痛みます。
今回の「ユーザーイリュージョン」は、どんなことなど考えずに、読みふけれますが、昨日は挽歌を書き忘れました。
懲りずに同じことをやってしまっています。
節子はきっと笑っていることでしょう。
修は夢中になると寝食を忘れるから仕方がないと諦めているでしょう。
しかし、節子がいなくなった今、寝食を忘れることはまったくなくなりました。
しかし、この本は面白いです。
ただかなり難解でなかなか読み勧めません。
その上、今回はきちんとノートをとりながら読んでいるのです。
正直に言えば、ノートを取らないと頭に入っていかないのです。
困ったものです。
ところで本書のどこが面白いのか。
それは、人間には自由意思などないのではないか、ただ「神」にしたがって生きているだけではないのか、というところです。
節子がいなくなってから、子どもの頃から思考停止してきたことを考えるようになってきていますが、その答があるような気がしているからです。
もう少し消化できたら、きっと挽歌で書けることがたくさんあるような気がします。
| 固定リンク
「妻への挽歌09」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1800:ささやかな日常の営みこそ輝いていた(2012.08.11)
- ■節子への挽歌1799:お人好し(2012.08.11)
- ■節子への挽歌1798:危うく熱中症?(2012.08.10)
- ■節子への挽歌1797:死んでいるのに、生きている(2012.08.10)
コメント