■節子への挽歌1674:亜空間
節子
またぶーちゃんからコメントが届きました。
読者からのコメントをもらうと、そこにまるで自分がいるようなことが少なくありません。
人の思いを掘り下げていくと、みんな同じところに行き着くのではないかと思うほどです。
全文はコメント記事をお読みください。
そこに、こんな文章が出てきます(一部省略しての引用です)。
(妻の発病までは)「いつまでもこの幸せな時間が続く」と考えていました。
妻の癌が発覚してからは、「今、ここ」がすべてと感じるようになりました。
妻が亡くなった後、「今、ここ」を大切にしようという感覚は消え去りました。
私もそういわれて見ると、まったくと言っていいほど同じです。
ぶーちゃんは、「時間が過去から未来へと続く「直線」として感じられていたのが、妻の癌発覚と同時に、時間が「点」として感じられるようになったと言えばいいでしょうか」と書いています。
その「点としての時間」も、妻との別れで見えなくなってしまった。
まさに時間の存在しない「亜空間」に漂っている感じなのです。
もっとも、いつもいつもそう感じて生きているわけではありません。
現実に、さまざまなことがあり、それにも対応しなければいけません。
しかしその「亜空間」感覚は、いつも心身のどこかにあるのです。
そして突然に、現実が単なる喧騒にしか感じられなくなり、どうしていま自分はこんなところでこんなことをしているのだと、自責の念にかられることもあるのです。
それは、突然にやってきます。そして不安が心身を襲うのです。
そうなるのは、なぜか華やかで喜ばしい日であることが多いのです。
昨夜の強風のせいか、今朝は実に気持ちのいい朝です。
空も、やわらかで、仰ぎ見ていると心やすまります。
思わず、生きている喜びを感じそうになるのですが、その一歩手前で、なぜか心が萎えてしまう。
心の底から、その喜びや生の実感を解放できない自分がいます。
ぶーちゃんも同じかもしれません。
こういう日には、逆に自責の念や違和感が襲ってくることが多いのです。
なんとまあ皮肉なことか。
春が来ましたが、なかなか私の心身には春が来ません。
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