■節子への挽歌1697:2つの時計
節子
今日は福知山線脱線事故の7年目でした。
事故を風化させてはいけないという発言を、テレビで何回も聞きました。
同じような事故を繰り返さないためにも、風化させてはいけないでしょうが、事故の被害者やその遺族は、なぜ風化させたくないのでしょうか。
テレビを見ながら、そんなことを考えていました。
事故の被害にあった人の関係者は、事故を忘れたいと思う一方、忘れられたくないと思うのでしょう。
そのアンビバレントな気持ちは、よくわかります。
事故の一瞬前で、時間が止まってくれたら、と、みんなそう思っているのではないか。
そんな気がします。
いや当事者にとっては、実際に時間は止まっているのです。
時間と共に癒されるとか、忘れられるとかいうことは、たぶんないでしょう。
当事者が自らの思いを「風化」させることなどあるはずがありません。
しかし、一方で社会は事件を風化させていきます。
社会にはたくさんの事故や事件がありますから、それをすべてとどめておくことなどできませんから、それは当然のことです。
当事者の時間と社会の時間は、こうしてずれていく。
当事者が「風化させたくない」というのは、その時間のずれを少しでも小さくしたいからかもしれません。
第三者が語る「風化させてはならない」という言葉とは、たぶんまったく違うのです。
事故が話題になれば、その時間に戻れるのです。
それは当事者にとっては、辛いことであるとともに、安堵できることでもあります。
風化させたくないと語る被害者家族の発言を聞いていて、どこか私の心情につながるものを感じていました。
こうした思いを抱いている人は、多いのでしょう。
そういう人たちは、たぶん「2つの時計」を持っているのです。
いつになったら、その2つの時計の時刻を合わせられるのか。
これからずっと2つの時計を持ち続けるのか。
これは、生き方につながってもいるのです。
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