■節子への挽歌1723:愛は死よりも強い
節子
フランクルは「人間とは何か」でこう書いています。
人間が本当に愛しているかぎり、その愛において、自分の心が実際に相手の精神的人格の一回性と唯一性に向けられているということは、それを体験している人間にはそのまま実感されることである。いまは、それがよくわかります。
しかしそこから話は少しややこしくなります。
愛は志向的行為なのである。愛が志向するのは他者の相在であり、それは、究極的に現存在から独立している。つまり、それは「存在」には依存しない「本質」であり、そのかぎり存在を超越しているのである。なにやらわかったようでわからないのですが、ただなんとなく頷ける気もします。
こうしてのみ、愛が愛される人間の死をも超えて持続するということが理解されうるのであり、ここから初めて、愛が死よりも、すなわち愛される人間の存在の無化よりも「強い」ということが理解されるのである。
続けて書かれていることを読むと、もう少し納得できるかもしれません・
愛される人間の現存在は死によって無化されるとしても、その相在は死によっても無くなることはない。その人の無比の本質は、すべての真に本質的なものと同じく、時間を超えたものであり、そのかぎり過ぎ去ることのないものである。私がとても共感できたのは、「実際に愛している者にとって、愛される者の死を現実に捉えることは決してできない」というところです。
愛は、愛される者の身体性をほとんど問題とせず、そのために愛はその人の死を越えて持続し、自分自身の死まで存続するのである。実際に愛している者にとって、愛される者の死を現実に捉えることは決してできない。それは、その人が自分自身の死を「捉える」ことができないのと同様である。
まさに、いまの私がそうなのです。
どうもまだ節子がいないという現実感がありません。
笑われそうですが、毎朝、節子に般若心経をあげながら、どこかからひょっこり節子が出てくるような気がしてならないのです。
フランクルは、「愛はその人の死を越えて持続し、自分自身の死まで存続する」とも言っています。
愛は死によって断ち切られることはないのです。
では、愛とは何か。
愛とは実は生きることではないかと、最近思うようになってきました。
愛がなくなってしまう時、人の生は終わるのです。
だとしたら、節子の生はまだ終わってはいません。
私の生を、今も支えてくれているのです。
少なくとも、節子がいなかったら、私の生はいまとはまったく違ったものになったでしょう。
だとしたら、節子と一緒に育ててきた、この生を、もっと大事にしなければいけません。
フランクルは、そう言っているような気がします。
生き方を少し考え直さなければいけません。
共に相在する節子に怒られそうです。
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コメント
奥様が本当に大好きなんですね。
長く供にされた奥様の性は佐藤さんの性に、実に良く対応されているように拝見します。
物の性は、実際に長く供にしなければ統計は成りません。
机上で標本が取れるのは机上で標本が取れる時だけです。
従ってお二人やその営みを測り知る事は叶いませんから、お二人に関して大きな事は言えませんけれども、
佐藤さんは奥様に頭が上がらない事ばかりだったのではないでしょうか。
投稿: 2933 | 2012/05/29 03:31