■節子への挽歌1722:随流去
フランクルの話を書こうと思っていたのですが、昨日の挽歌を書いていて、「随流去」という言葉を思い出しました。
ちょうど、1週間前に、テレビの「こころの時代」で聞いた言葉です。
回りの流れに身を任せて、しかし思うがままに生きていくというのが、私の理想なのですが、そうしたことにつながっている言葉なので、心に残っていました。
随流去。
流れに従って去る、という言葉ですが、これは大梅禅師の言葉として伝えられています。
大梅禅師は、長い期間、山に篭って行をされていたことで有名な唐の時代の高僧です。
杖になる木を探しに山に入ったある修行僧が、路に迷ってしまいます。
そして、たまたまたどりついた大梅禅師の庵で、「山を抜け出るにはどちらに行ったらよいでしょうか」と訊いたところ、大梅禅師は「随流去」と応えたという話です。
「流れに随って去(ゆ)きなさい」、大梅禅師は川に沿って行けば山を抜け出られることを教えてくれたのです。
川の水は低いほうに流れていきますから、その流れに沿って歩いていけば里に導かれるというわけです。
この言葉には、自分の判断ではなく、大きな真理に従って歩いて行けばいい、という意味が込められています。
真理は、川の流れのように、どんな状況にも揺らぐことなく、ぶれることなく低きに向かって流れていきます。
壁にぶつかっても、必ず進路を見つけ出していくのです。
これは、私が目指している生き方そのものです。
十分に出来ているとは思いませんが、私ができるだけ直感を大事にしているのは、生命には真理が宿っていると思っているからです。
もちろん、流れに随っていくことは、流れに流されることは違います。
心を安らかにして思いを発すれば、流れの本流が見えてくるものです。
なぜこんなことを書こうと思ったかといえば、最近、どうも大きな流れではない、小さな流れに惑わされがちだからです。
節子がいなくなったのも、大きな流れから見れば、きちんとした意味を持っているのでしょう。
右往左往してはいけない。
そのことを、節子は私に教えていってくれたはずです。
節子がいなくなった今も、大きな流れは滔々と流れているのです。
随流去。
流れに随うならば、最近の不安感は消えていくような気がしてきました。
節子の生き方を思い出さなければいけません。
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