■コミュニティケアと在宅ケアの深いつながり
今日、あるメーリングリストで在宅ケアに関する集まりの案内がまわってきました。
その最後に、私への呼びかけがあったので、返信しました。
そこに書いたことを少し補足して掲載します。
最近どうも時評編を書くモチベーションがわいてこないのです。
先日、NHKの「こころの時代」で京都大学のカール・ベッカーさんが「理想の終焉」について話していました。
そこで、ベッカーさんは、
現在の日本人は、日本人らしくなくなった。
バブル以降、日本人の考え方が個々人の死について、看取りをしなくなったために、死を恐れない国民から、死を恐れ 怖がる国民になった。
と話していました。
とても共感できました。
私がコムケア活動に取り組もうと考えたのは、2000年頃です。
当時、「コミュニティケア」と言う言葉が広がっていましたが、その背後に、施設福祉を減らして医療費を削減しようという雰囲気を感じていました。
ですから私にはその分野の人たちが語る「コミュニティケア」という言葉が空虚に聞えていました。
そこであえて、「コミュニティケア」という言葉を使い、そこに「重荷を背負い合う関係」こそコミュニティケアの意味だと強調したのです。
当時の集まりなどで、そうしたことを話させてもらったりしました。
一部の人からは評価してもらいましたが、ほとんどの人は、私の意図にはあまり関心を持ちませんでした。
「重荷を背負い合う関係」の基本は、私は家庭もしくは家族にあると思っています。
家族と家庭とは、私の意識の中では必ずしも同じではありませんが。
しかし家族はなかなか話題になりだしませんでした。
私の記憶では5年ほど前から家族関係のNPO以外のNPOの世界でも家族問題を言葉にする人が増えてきました。
しかし、あまり盛り上がりませんでした。
みんなもう「家族」や「家庭」には期待していないのかもしれないと思うほどです。
今年、コムケアサロンでも一度、家族をテーマにしましたが、やはり難しいテーマでした。
コミュニティケアは日本の場合、脱施設発想だけで地域のあり方を問い直すところまでいきませんでした。
その一つの理由は、家族(家庭)の視点が弱かったからだと思います。
「コミュニティ」という概念も曖昧でした。
それでは「コミュニティケア」が実体化することはありません。
たとえば、介護の社会化ということ場が、介護保険導入時に盛んに言われました。
しかし結果は介護の市場化でしかありませんでした。
ここでも「社会」の意味が曖昧だったからです。
在宅ケアが問題になること自体に、私は大きな違和感がありますが、
逆に言えば、そこにこそ、今の私たちの生き方や社会のあり方の根本問題があるような気もします。
在宅ケアに含意されていることはとても大きいのです。
問題は介護や看取りだけではなく、普段の生き方です。
ベッカーさんの指摘も、私たちの生き方を問うているように思います。
在宅ケアの問題には、まさに今の私たちの生き方が凝縮されているように思います。
そして、それはこれからの私たちの社会のあり方を方向づけるでしょう。
一度、湯島で、在宅ケアと私たちの生き方について、サロンをしたくなりました。
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