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2012/05/28

■節子への挽歌1725:あらゆる存在は関係存在

昨日の挽歌に出てきた「相在」と言う言葉が少しわかりにくかったかもしれません。
その前のフランクルの文章を紹介しなかったからです。
その文章も、とても共感できる言葉です。

一つの存在者は他の存在者と関係づけられることによってはじめて、両者は本質的に存在しうるのである。
それぞれ互いに他の存在者であるものとしての存在者間の関係が、ある意味で存在者に先行している。
存在は他在である。
言い換えれば、存在は閑係としての他在であり、本来ただ関係なので「ある」。
つまり、あらゆる存在は関係存在である。
存在は閑係としての他在であり、本来あるのはただ関係だけ。つまりそれが「相在」ということです。
まるで仏教の経典を読んでいるようです。
そして、それは私の考えと重なっています。
人は一人では存在できずに、誰かがいるから存在しうるのです。
さびしがりやだった私の、それは小さい頃からの考えでもありました。
私は、孤独でいることも好きでしたが、それはこうした考えがあればこそです。
孤独でいることで、すべての人やすべての自然、あるいはすべての存在とつながりあえるからです。
しかし、節子と20年ほど一緒に暮らした頃から、少しずつ私は変わってきました。
すべての存在との関わりの結節点であるべき私の中に、節子が入り込んできたのです。
世界が変わり、私が変わりました。
いまの私は、節子との関係の中で生まれたのです。
一度、変わると、人はもう元には戻れません。
前に進むしかない。
そして、節子のいない私は、いまやもう存在さえできないわけです。

おかしな話ですが、節子が彼岸に旅立っても、私たちの関係は此岸にそのまま残っています。
では、もし私が彼岸に旅立ったらどうなるのか。
もしかしたら、それでも私たちの関係は此岸に残り続けるのかもしれません。

私は遺跡が大好きです。
遺跡に立つとそこで生活を営んでいた人たちの声が聞えてくるような気がするからです。
そしてとても懐かしい気持ちになれるのです。
遺跡を訪れても、私に残るのは風景ではなく、そうした雰囲気なのです。

此岸では見えない地球の風景があるのではないのか。
そんなことを節子と話したこともありますが、節子は今それを見ているのかもしれません。
「愛が愛される人間の死をも超えて持続する」(フランクル)ということは、関係は決して消えることがないからなのです。
何しろ関係を変えたくても、もうその相手が見えなくなっているのですから、此岸からは変えようがないのです。
だから、愛は永遠なのです。
今の私には、終わらせる術がないわけです。
困ったものですが、これは素直に受けいれねばいけません。

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