■節子への挽歌1703:神を超える
節子
先週の日曜日、NHK「こころの時代」で、山田邦男さんがヴィクトール・フランクルを語っていましたが、録画していたものを見ました。
山田邦男さんはフランクルの多くの著作を日本語に訳されている方です。
先日、読み直した「それでも人生にイエスと言う」も山田さんの翻訳です。
いうまでもなく、フランクルはナチスの強制収容所を生き抜いた精神科医師です。
山田さんは最初にフランクルに会った時に、それまでの緊張感がスーっとほどけ、心が開いたと話されていました。
フランクルには、たぶん、体験からの大きな生命のパワーが宿っていたのでしょう。
私もそんな人になりたいものです。
フランクルが、「人は人生の意味を問うのではなく、自分が人生に問われていることに応えなくてはいけない」と言っているのは有名な話です。
しかし今回、私の心に響いたのは、フランクルは一神教を超えていたという山田さんの言葉です。
私は、一神教がまったくなじめないため、キリスト教が好きになれないのですが、どうも神を超えた存在にフランクルは行き着いているようです。
実はこの3日間、デンマークの科学ジャーナリストの書いた「ユーザーイリュージョン」という本を読んでいました。
読んでいる途中に、思い出して録画していた「こころの時代」を見たのですが、あまりにもつながっているメッセージを受けて、まさにシンクロニシティを感じました。
先日読んだ「神々の沈黙」もそうですが、この本も神を超えています。
今日はちょっと疲れているので、追々また書いていくつもりですが、生命の深さを改めて感じました。
それにしても、実に刺激的な壮大な仮説の本ですが、私が子どもの頃から考え、従ってきたことに実に符合するのです。
節子がいたら、私の話していたことがまんざら独りよがりの仮説ではないことを自慢できたというような内容でした。
それにしても500頁を超える大著を集中して読んだため、ちょっと目が疲れた上に興奮気味です。
こういう時には、いつも節子に無理やり聴かせたものでした。
まあ私が興奮して話しても、節子は聴いているようであんまり聴いてはいませんでしたが。
しかし、話し相手の節子がいないことが、読書にまでもこんなに影響するとは、思ってもいませんでした。
節子の存在の大きさを、改めて感じます。
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コメント
それでも人生にイエスと言うは、私も読みましたが、人生は何か?その哲学の集大成ともいえる内容で、とても参考になりました。素晴らしい本ですよね。
投稿: ベンジャミンフランクリン大好き人間 | 2013/05/10 19:07
ありがとうございます。いろいろときづきをもらえる本ですね。ベンジャミン・フランクリンの本からも教えられます。
投稿: 佐藤修 | 2013/05/11 07:42