■安さを求める文化からの脱却
最近、毎日のように悲惨な交通事故の報道に接します。
しかし、そうした事故の多くは、本当に「事故」なのでしょうか。
私たちの生き方が、問われているのではないかと思います。
最近の関越自動車道で起きた高速ツアーバス事故長距離バスの事故の場合、運転手の居眠りが原因とされています。
確かに直接的な原因は、そうでしょう。
しかし、果たしてその運転手を私たちは責められるのか。
なぜ彼は居眠りをしてしまったのか。
それは私たちの生き方と深くつながっています。
それはちょうど原発事故の責任の一端を私が担っているのと同じ構造です。
安さだけを求める文化の社会は、破綻します。
私は会社時代に、コストダウン反対論者でした。
大切なのは、コストダウンではなくバリューアップでなければいけません。
コストダウンは、バリューアップの一要素でしかないのです。
コストダウンではなく、コストパフォーマンスを高めることが大切です。
その発想は、今の社会から失われています。
安い電力を買おうとするために、私たちは原発を選びました。
事故があって当然とは言いませんが、事故が起こったらその責任は自分で取らねばいけません。
良いとこどりをする卑しい発想は、捨てねばいけません。
だから私は、今も原発反対のデモに行けずにいます。
原発には反対ですが、そこで発せられる発言には、どうもついていけません。
同じことは今回のバス事故にも当てはまります。
安いということはリスクがあるということです。
安さのしわ寄せは企業経営者や企業出資者には行きません。
必ずと言って良いほど、現場の労働者に行きます。
なぜなら利益を生み出す源泉は、現場の人間の労働にしかないからです。
運転手も無理を承知で引き受けざるを得なかった。
なぜそうしたことになるかといえば、労働力が買い手市場になっているからです。
なぜ買い手市場になっているのか。
それは政府の政策がそれを志向しているからです。
たとえば、脱原発で世論が一致しないのは、脱原発すると雇用がなくなると脅すからです。
発想が完全に間違っています。
脱原発して雇用が不足するなら、どうしたら雇用を増やせるかを考えれば良いだけの話ですが、雇われた人たちにはそんな余裕すらありません。
電力が不足するなら、供給を増やすのではなく消費を減らせば良いだけですが、政府にも消費者にもそんな発想はありません。
生活者であれば、そういう発想も出てきますが、いまやみんな「消費者」になってしまっています。
消費者と企業経営者は、私には「ぐる」にしか見えません。
大型連休でのテレビ報道を見ていると、どうしても「ソドムとゴモラ」の民を思い出してしまいます。
「消費者」にもなれない落ちこぼれの僻目かもしれませんが。
居眠りをした運転手も、癲癇を起こした運転手も、夜通し自動車を飛ばしていた若者たちも、すべて私たちが生み出しているのです。
その認識がなければ、いくら規制をつくっても意味がないように思います。
ストレステストだとか安全性基準だとか、そんなものに安心を託すわけにはいきません。
安全を目指したいなら、まずは自らの生き方を変えなければいけません。
生き方を正してなお、事故に合うのであれば、それは仕方がないことです。
運が悪かったことを嘆くしかありません。
事故の被害者には、いささか不謹慎な言い方かもしれませんが、私は運転手に大きな同情を感じています。
もちろん乗客には、それ以上の同情を感じていますが。
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