■節子への挽歌1718:「去年マリエンバードで」
「去年マリエンバードで」という映画をテレビで観ました。
私が大学生の頃に話題になった映画です。
芥川龍之介の『藪の中』を下敷きにしたものですが、その作り方が大きな話題を呼びました。
4つのシナリをつくり、それぞれを撮影し、その4作品を編集して一つの作品にするという手法です。
『藪の中』は、黒澤明によって『羅生門』という映画になっていますが、それに触発されて、アラン・レネ監督がつくった映画です。
アラン・レネは、アウシュヴィッツ収容所を描いた『夜と霧』で注目された監督です。
私は一時、映画評論家になりたいと思ったことがあり、大学3年の頃は映画館に通い詰めていました。
当時、ヨーロッパの映画もかなり観ましたが、「去年マリエンバードで」は一度しか観ていないのに、一番印象に残っている映画の一つです。
その映画を、半世紀ぶりに観たわけです。
ストーリーはあんまり意味もないのですが、こんな感じです。
主人公の男Xは女Aと再会します。
Xは去年マリエンバートで会ったとAに語りかけるのですが、Aは記憶していません。
しかし、AはXの話を聞くうちに、おぼろげな記憶が浮かんできます。
そして、Aの夫であるMは、「去年マリエンバートで」実際に何が起こったのか知っているのです。
そして最後にXとAは去っていくのです。
まあ、わけのわからない紹介ですが、そんな映画なのです。
そこでは、実は彼岸と此岸が融合しています。
時間軸も複雑に絡み合っている。
さらにいえば、3人の思考が、別々に絡み合いながら、一つの世界を創りあげているのです。
私の理解では、Aは死者です。
映画の中では、MがAを銃で撃つ場面がフラッシュされています。
しかし、Aはすでにその前に生を失っていたかもしれません。
当時のフランス映画のテーマの一つだった「死ぬほどの退屈さ」に覆われていたのです。
ですから、Aは夫に撃たれることで彼岸に蘇ったのです。
彼岸で蘇った死者が見えるXも死者と言えます。
Xもまた、彼岸に生きているわけです。
そして、そのXが見えるMも死者ということになる。
つまり、これは死者の織り成す鎮魂歌なのです。
なにやらややこしい話を書いてしまいましたが、愛とか死とかをいろいろと考えていた若い頃を思い出しました。
あの頃は、ミケランジェロ・アントニオーニとかイングマール・ ベルイマンにはまっていました。
そこに節子が現れた。
そして人生が変わったのです。
シンプルな人生に、です。
節子に感謝しなければいけません。
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コメント
佐藤様
pattiです。
いつものことなのですが、4月のある日の挽歌を読んで、あまりにも共鳴しすぎためか、コメントしたいのに出来ずにいました。
でも、映画についてのお話が、私も高校時代に映画研究会に在籍し、イタリア映画の衝撃に心を振るわせたことが思い出され、
コメントするきっかけになりました。
>「自責の念」は自らを浄化し安堵させる行為なのです。
>怒りや悲しみを、自らで引き受けることで、被害者と一体化することかもしれません。
被害者を夫に置き換えれば、まさに私の実感です。
佐藤様のブログからも、今受講しているグリーフケア講座でも、そして、日々携えている書物からも、
そして、時には思いがけない映画からも、私は多くの言葉に
共感し、励まされ、新たな思索の展開の示唆をもらっています。
語りたいことは山ほどあります。でも、同時にそうしたことに触れることにより、
十分満たされた思いにもなります。
嘆き、責め、感謝し、安堵し、毎日目まぐるしく感情が揺れ動きます。毎日予想もつかない気持ちの変化と共に生きています。
おそらく、永遠の世界に旅立つまでずっと続くでしょう。
先日のブログで、佐藤様が心身共にお疲れの様子で心配しておりました。
どうぞ、お体大切になさってください。
投稿: patti | 2012/05/19 10:03
patti さん
ありがとうございます。
ご心配かけてすみません。
ようやく少し脱出できそうです。
時々陥ってしまいます。
困ったものですが、素直に受け容れています。
投稿: 佐藤修 | 2012/05/27 09:39