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2012/05/26

■節子への挽歌1721:精神のカ動性

節子
最近、どうして気が萎えているのかわからなかったのですが、フランクルの「人間とは何か」を読んでいたら、こんな文章が出てきました。

人間は、ある一定の、健全で、適度な緊張を必要としている、と私は考えるのである。大切なことは、どんな代価を払っても恒常性(ホメオスタシス)を維持させることではなく、精神のカ動性なのである。
私にとって、節子は「健全で適度な緊張感」を与えてくれる存在だったのです。

節子を見送ってからは、精神のカ動性を意識的に封じ込めてきているような気がします。
意識的に、というのは必ずしも正しくないかもしれません。
生命現象が意識よりも勝っているといったほうがいいでしょう。
つまり、今の私は、意識は萎えているのに、生命は決して萎えていないのです。
生命の感受性は高まり、視界は広がり、意識の世界を超えて、生命が動き出している。
存在しない節子までも実感できるほどに、生命は過敏になっています。
その一方で、意識は呪縛されたようにひたすら「その時点」にとどまろうとしています。
「意識を放棄した意識」、そんな感じさえします。

節子がいなくなってから、ある意味で、意識は弛緩しっぱなしです。
何かを成そうという気は後退し、流れに随うという生き方に変わってきています。
何かを成すほどの意欲が生まれない。
まあ平たくいえば、「もうどうでもいいか」というような気分なのです。
生命のホメオスタシスに心身をゆだねて、怠惰に生きている、そんな状況にあります。
適度な緊張感のないままに、精神の力動性は作動せず、どこかで精神が萎えだしている。
そして、その隙間をぬって過度な緊張感が入り込んできて、いっそう気を萎えさせている、そんな状況なのです。

私だけではないと思うのですが、愛する人がいなくなると、人生は弛緩します。
どうでもよくなってしまう。
と同時に、健全でもなく適度でもない緊張感に襲われます。
緊張と弛緩は矛盾すると思う人もいるでしょうが、私の場合は、その両者が間違いなく共存しています。
つまり、精神、あるいは気が、大きく触れているのです。
その理由も、フランクルは書いています。

愛はよく言われるように盲目にするものではなく、視力を強めるものであり、価値を洞察させるものである。
生命現象も、意識現象も、愛によって増幅させられます。
しかし、その「愛」の対象が実感できなくなると、意識は混乱してしまう。
異常な疲労感は、そうした中で発生するのかもしれません。

フランクルの本から気づいたことはたくさんあります。
あまりに多すぎて、うまく書けませんが、少し書き続けてみようと思います。

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