■節子への挽歌1728:愛は魔法
節子
フランクルの本の話をもう少し続けます。
節子のことを考えながら、この本(「人間とは何か」)を読んでいたからです。
愛は、それだけで人を幸せにする「恩恵」であるが、それだけではない。
愛は魔法でもある、とフランクはいうのです。
そういわれると、たしかにそうです。
フランクルは、こうつづけます。
愛する者にとって世界は魔法をかけられ、愛によって世界に価値が加えられるのである。誰かを、あるいは何かを、愛すると、世界は一変する。
愛する人間は、愛によって、価値の豊かさに対する人間的な共感性を高める。
宇宙全体は一層広く深い価値を有するものになり、愛する者のみが見ることのできる価値の光の中に輝くのである。
なぜなら、愛はよく言われるように盲目にするものではなく、視力を強めるものであり、価値を洞察させるものであるからである。
愛によって、世界は輝きだす。
それまでなんでもなかったものが意味を持ち出す。
価値を持ち出すのです。
すべての時間が至福の時間になり、永遠に続くような気になります。
それは、私が体験したことでもあります。
まさに、愛は魔法です。
問題は、その魔法が解けてしまった時です。
愛はなくなったわけではないのですから、魔法は解けてはいないはずですが、あれほど輝いていた世界が、無表情で退屈な世界に一変してしまいます。
輝きの幻覚は、節子との思い出と共に、時々浮かんではきますが、以前とは違った世界がそこにある。
これはどうしたことでしょう。
あきらかに矛盾があります。
愛が永遠であるならば、魔法もまた永遠でなければいけない。
にもかかわらず、世界の輝きは消え失せてしまいました。
まるで、その輝きは、愛する者によって引き起こされていたかのように。
その輝きを支えていた存在がいなくなったために、輝きがとまったかのように。
まるで、世界の輝きは節子と共に、彼岸に行ってしまったようです。
残されたのは、生きる価値がないとさえ思いたくなるような、退屈な無表情な世界です。
もう魔法は戻ってこないのでしょうか。
フランクルは、「愛によって、価値の豊かさに対する人間的な共感性が高まる」と書いています。
とても納得できますし、私も実感しています。
価値の豊かさは、以前よりも間違いなくよく感じられますし、その感覚は節子がいなくなってむしろさらに高まったように思います。
にもかかわらず、世界は輝きを失ってしまった。
この矛盾が、まだなかなか解けません。
実は何となく答はすぐそこにあるような気がしているのですが、うまく説明できません。
たぶん、私はまだ、愛の魔法にかかっているのでしょう。
時間が少したったら、またフランクルを読み直してみようと思います。
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