■節子への挽歌1712:重荷を背負い合う
節子
最近どうも疲れが抜けません。
それに肩こりがすごいのです。
いささか悩ましい重荷を抱えているせいかもしれません。
重荷にうなされて夜中に目が覚めることもあります。
目が覚めると心配が高まって眠れなくなります。
節子がいた頃は、こんなことはありませんでした。
重荷は、一人で背負っていると疲れます。
もっとも、節子がいた頃も重荷から自由だったわけではありません。
そもそも節子の病気自体が、私たちにはとても重い問題でした。
医師から覚悟してくださいと言われても、覚悟する気にはなれませんでしたが、私にも節子にも、とても重い荷物だったことは間違いありません。
夜中に心配で目が覚めたことも少なくありません。
しかし、それでも隣に伴侶が寝ているだけで、安堵できました。
どうしても不安が収まらない時には、相手を起こして一言二言話せば安堵できたのです。
重荷を背負い合う相手がいれば、重荷も重荷になりません。
しかし、一人だとちょっとした重荷にも心が暗くなることもあります。
「だいじょう」と言ってくれる人がいないと、心配は増幅してしまうのです。
今から思うと、私たちが楽観的でいられたのは、お互いに「だいじょう」と言い合ってきたからかもしれません。
その一言があるかないかで、状況は全く変わってしまうのです。
重荷を背負い合う関係を社会に復活しようという話は、コムケア活動を始めた時に行きついた発想です。
その集まりでは、いつもその話をさせてもらいました。
ある人は、その言葉に感激したと言いながらも、でもやはり他者の重荷を背負うのはちょっと腰が引けてしまうと、後で耳元でささやいてくれました。
その話も節子にしたことがありますが、重荷を背負うことに関しては、節子ときちんと話したことはありませんでした。
でも節子は、いつも私の重荷をシェアしてくれましたし、私も節子の重荷をシェアしてきたと思います。
節子がいなくなって重荷は軽くなったのか。
そんなことはありません。
ますます重くなってきています。
最近は半端ではなく肩が凝ります。
節子がいたら揉んでもらうのですが、やはり娘には頼みにくいです。
不思議なものです。
重荷を背負い合う生き方は、そろそろ私には無理なのかもしれません。
最近、そんな気がしてなりません。
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