■節子への挽歌1727:「不幸な」愛というものは存在しない
節子
「愛は、どんな場合でも、愛する者を豊かにせざるをえない」とフランクルは書いています。
とても共感できます。
「悲恋」という言葉はありますが、「悲愛」という言葉はありません。
本来的に、恋は他動詞であり、愛は自動詞だからだと思います。
フランクルはこう書いています。
「不幸な」愛というものは存在しない。
というのは、私は本当に愛しているか、本当には愛していないかのどちらかであるが、もし私が本当に愛している場合には、それが報われるか否かにかかわらず、私は豊かにされていると感じるのであり、また私が本当に愛してはいない場合には、私は他の人間の人格を本当に「思っている」のではなく、その人格を離れて、その人が「持っている」単なる身体的なものや(心理的な)性格特性を見ているにすぎない。
この場合は私はそもそも愛する人間ではないのである。
誰かを愛すると、その人の価値が見えるようになり、それは自らを豊かにしてくれる、ともフランクルは書いています。
今となって思えば、私の生き方が(私にとって)とても豊かになったのは、節子を愛する事ができたおかげだと思います。
たしかに私には、節子の身体的なものや心理的なものも大きな価値を持っていますが、それも含めて、節子を愛したということそのものが、私の人生の意味を深めてくれたように思うのです。
思った以上に早い終わりは、悲しさもありますが、フランクルが言うように、だからと言って、「不幸」とはいえません。
それに、節子との一緒の暮らしは終わりましたが、愛が終わったわけではない。
私は今もなお、節子を愛していますし、節子もたぶん私を愛しているでしょう。
そう思えば、悲しむことはないわけです。
悲しいのは、ただただ節子と話したり抱きあったりできないだけの話です。
でもそれもまた、節子を愛したことで与えられた私の人生の意味の一つなのです。
むかし読んだフランクルと今度読んだフランクルとはかなり印象が違います。
フランクルは最後の最後まで原稿を書き直していたといいますから、内容も少し変わっているのかもしれませんが、私の意識が大きく変わっているのでしょう。
「不幸な」愛というものは存在しない。
実に共感できる言葉です。
いまの状況を嘆きたい気持ちはもちろん強いですが、一方で、いまの幸せをきちんと認識しないといけません。
愛する人を失った人たちにも、この豊かな気持ちを分かち合いたい気もします。
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