« ■節子への挽歌1715:手巻き寿司文化 | トップページ | ■節子への挽歌1716:初夏を感ずるのに気が起きません »

2012/05/14

■繰り返し「問題の立て方」みついて

何回か書いたことですが、また書きたくなりました。
それは「問題の立て方」のことです。
相変わらずほとんどの人が、問題を出してもらって、それを解く姿勢で生きています。
まさに「お上」に従う生き方です。
私は、大切なのは、自分で問題を立てることだと思っています。

問題を立てる時に重要なのは、発想の起点(視座)とビジョン(視野:問題の目的)です。
そもそも問題を立てることで、ほとんどのことは決まってきます。
問題を解くことを教える学校は、私には教育機関ではなく、訓練機関でしかありません。

たとえば小沢事件は、そもそも起訴された時に問題は立てられていました。
その問題でいえば、判決は副次効果にすぎないのかもしれません。
起訴だけで、問題の目的はかなり達せられていたからです。
問題を与えられた国民は、学校教育で学んだように、小沢さんのイメージを構築しました。
日本人は、問題を立てるのは不得手ですが、問題を解くのは得手ですから。

消費税増税もそうでしょう。
いまの立て方をされたら、消費税増税には反対できません。
つまり問題にはならない問題なのです。
せいぜいが「選択問題の選択肢」でしかありません。
訓練機関で叩き込まれた従順な訓練生は、それを問題だと後生大事に扱っているのですが。
そもそも時間軸もない、現場とは無縁な、数字の世界の問題設定には抗えないのです。
論理が完結しているからです。
そうしたスタティックな学問が世界を壊してきたはずなのですが、そのなかで訓練されてきた私たちは、なかなかそこから抜けられません。

電力需給はもっとわかりやすい事例です。
「供給が足りない」を起点にするか、「需要が多すぎる」を起点にするかで、問題は全く違ってきます。
「経済成長を目指すか」と「持続可能性を目指すか」でも、問題は全く変わってきます。
そして、どういう「問題」を立てるかで、行動は全く変わります。
もし、本気で私たち人間が住み続けられることを目指すのであれば、つまり地球環境を大事にし、持続可能性を重視するのであれば、供給が足りないなどという発想は出てこないでしょう。
もし、「絆」や「支え合う」「つながり」を本気で回復したいのであれば、電力需給が厳しい状況は実に望ましい状況として、それを活かす方向で問題を立てられるでしょう。

昨年も書きましたが、個人レベルにおいては、そもそも「節電」などという傲慢な発想を捨てて、自らの生き方を問い直していく契機にすればいいと思います。
できれば、併せて、産業のあり方も、そういう方向になればと思います。
電力を過剰に使う産業のあり方こそが、私には違和感があります。
昨年せっかく電力消費量が減って気持ちよくなったのに、また以前のような過剰電力消費社会に戻ってきています。
ちなみに常磐線(我孫子~綾瀬間)の車内温調は、私にはいつも過剰で不快です。
メールで何回か提案しましたが、変わりません。
私が、異常なのかもしれませんが。

|

« ■節子への挽歌1715:手巻き寿司文化 | トップページ | ■節子への挽歌1716:初夏を感ずるのに気が起きません »

政治時評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30899/54707333

この記事へのトラックバック一覧です: ■繰り返し「問題の立て方」みついて:

« ■節子への挽歌1715:手巻き寿司文化 | トップページ | ■節子への挽歌1716:初夏を感ずるのに気が起きません »