■節子への挽歌1707:自立しない宣言
節子
また福井の義姉からどっさりのタケノコが送られてきました。
節子がいなくなっても、私の好物が引き続き届きます。
ありがたいことです。
そのどっさりのタケノコを、娘たちが調理してくれるので、私は相変わらずタケノコ三昧です。
しかし、娘からはもう少し自立したらと盛んに言われます。
しかし私が自立できるわけがありませんので、自立しない宣言をしました。
なんでこの歳になって自立しなければいけないのか。
こういう私の生き方は、たぶんに節子に原因があります。
私たちは、分野分野によって、お互いに依存しきってしまう関係でした。
人には得手不得手がありますから、それを活かしあったほうが、それぞれの人生も関係も良いものになると思っていたのです。
今にして思えば、それは間違っていました。
もし私が先に逝ったら、節子は私以上に苦労したでしょう。
節子は私以上に自立していなかったからです。
つまり、私たちはお互いそれぞれに自立できていない、だめな夫婦だったのです。
しかし不思議なもので、その自立していない2人が組み合わさると、実に自立してしまうのです。
それに、自立していない相手を見ると、自分の自立できないでいる部分は棚に上げて、相手にとっての自分の存在価値を実感できるのです。
ややこしいですが、実は役立つというのは双方向の関係概念です。
誰かに役立っていると思うことほど幸せなことはありませんが、それが可能になるのは、役立てる人がいなければいけません。
つまり、役立つことに価値があるということは、実は役立たせてやることにも同じほどの価値があるのです。
役立つということは相手がなければ成り立ちませんから、当然のことです。
だから私は自立をやめて、娘たちが私に役立てるように、相変わらずだめの生き方をしようと思ったわけです。
節子が聞いたらどう思うでしょうか。
また言いくるめられたと怒るでしょう。
節子はいつも私に言いくるめられていましたが、だからと言って節子の行動が変わることはありませんでした。
これもまた双方向の関係概念だったのかもしれません。
節子が言いくるめられたという時には、だいたいにおいて私の話を聞き流していたからなのです。
そんなおかしな会話をする相手がいなくなったのが、無性にさびしいです。
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