■「私の中の私自身よりも大いなる何者か」
「マクスウェルの悪魔」で有名な物理学者ジェームズ・マクスウェルは、その臨終の床で友人に次のように語ったそうです。
「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、私の中の私自身よりも大いなる何者かによって成されたような気がする」。
最近、意識の誕生とか意識の実体とかといった関係の本を数冊読んだのですが、この話は「ユーザーイリュージョン 意識という幻想」という本で知りました。
マクスウェルに限らず、こうした感想を述べた人は少なくないでしょうし、さまざまな偉業を達成した人の物語を読むと、そこに個人を超えた「何か」の働きを感じます。
私が、知的所有権を認められないのは、そうした思いからです。
東芝の社員時代に日本語ワープロの変換機能を単独で発明したのに、正当な対価を受け取っていないとして、元社員が同社に約3億円を求めた訴訟の和解が成立したという記事が一昨日の新聞に出ていました。
こうした訴訟はこれまでにもいくつかありました。
それが悪いとは言いませんが、何かとてもさびしい気がします。
誤解されそうですが、訴訟を起こした元社員を非難しているのではありません。
その人が訴訟まで起こすには、それなりの理由や状況があるのでしょう。
そうしたことも知らずに、無責任の批判はできませんし、どちらかといえば、現場で汗してがんばった元社員の応援をしたいと思います。
私がさびしいと思うのは、元社員も現在の会社経営者も、マクスウェルのような気づきがないのだろうかという「さびしさ」です。
知の発見は、お金では換算できないほどの大きな喜びではないか。
そしてそれをたくさんの人たちが使って喜んでくれることが最大の幸せではないか。
その喜び、その価値がどこかに行ってしまっている。
こうしたニュースを知るたびに、いつも思うことです。
知は、すべて人類のものであり、歴史が生み出すものだろうと私は思っています。
ニュートンにしても、マクスウェルにしても、天才的な発見をしていますが、「天才」という言葉がいみじくも示唆しているように、それは「天の才」がたまたま個人に宿っただけではないかと思います。
DNAの螺旋構造の発見のように、時に「天の才」は複数の個人に宿ることもあるからです。
その才が、宿る人は偶然にではなく、やはりそれだけの努力をしているでしょう。
天は、そうした人を見つけて「預言」してくるのだろうと思います。
科学技術の分野だけではありません。
イエスもムハンマドも、いずれも天が選んだ「預言者」です。
生きる知恵もまた、個人に「預言」されたのです。
しかもこれもまた複数の人たちにです。
今から2500年ほど前のことですが。
しかしこれまたさびしいことに、そうした大きな気づきも、宗教教団によって制度化され世俗化(経済化)されてしまったようにも思います。
さびしい時代ですが、それもまた「私の中の私自身よりも大いなる何者」かが仕組んだことです。
どこかにきっと大きな意味があるはずです。
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