■節子への挽歌1704:観点の転回
節子
昨日書いた「こころの時代」で山田邦男さんがフランクルの観点の転回の話を紹介していました。
私も以前、まったく同じことをこの挽歌に書きましたので、大きくうなづけました。
山田さんは概略、こう話されました。
ある老人がフランクルのクリニックに来て「妻に先立たれてその悲しみから立ち直れない」と訴えるのです。山田さんは、こうやって「観点の転回」を行うと世界は全く違って見えてくる、悲しみも辛さも違ってくるというのです。
その話をフランクルはじっと聞いていてこういうんです。
「もしあなた自身が亡くなって、あなたが今なめているその苦しみを奥さんが今味わっているとするならば、あなたはそれでもいいですか?」
その老人は、「妻は悲しむだろう。とてもそういうことはさせたくない」といいます。
「そうでしょう。そうだとすればあなたは、奥さんを苦しみから救っているんですよ」
それでその老人は、深くうなづいて立ち去ったと・・・こういうことを言っています。
フランクルは、そこで自分が苦しむということに意味があるのだというのです。
よくわかります。
私もそうやって、自らを納得させたこともありますし、そういう思いは今もあります。
しかし、全くその通りなのですが、山田さんもフランクルも、肝心なことを語っていません。
その老人は、立ち直れたのかどうか。
そこに「当事者」と「観察者」の視点の違いがあります。
老人はフランクの話に納得したでしょう。
私も納得できましたから。
しかし、それがどうしたというのでしょう。
問題の所在を見間違えてはいけません。
観点の回転はとても大切ですが、変えられない観点もあるのです。
実は、この文章は書いたものの、どこかすっきりしないところがあって、昨日は公開せずにいました。
読み直して、書き直そうと思っていましたが、うまく書き直せそうもありません。
ですから、このままアップしてしまいます。
念のために言えば、私はフランクルを非難しているのではありません。
彼も十分に「当事者」でしたから。いや私以上に当事者を過ごしてきたはずですから。
しかし、当事者といっても、それは自分だけの当事者なのです。
それを忘れてはいけません。
フランクルの言葉のどこに違和感があるのか、少しわかってきました。
いつか書けるかもしれません。
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