■節子への挽歌1706:“sublime” 崇高なるもの
節子
先日、読んだ「ユーザイリュージョン」の最後の章は「崇高なるもの」と題されていました。
500頁を超える膨大な論考を経た結果、著者が行き着いたのは「崇高なるもの」という概念でした。
それこそが、「人間であることのすばらしさの極みにかかわる価値」だ、と著者のトール・ノーレットランダーシュは言うのです。
「崇高な」の原語は“sublime”です。訳語としては、「荘厳な」というのもあります。
でもなんだかいずれもピンときません。
ノーレットランダーシュは、「意識が人を十分に信頼し、生命を、その自由な流れに任せるような状況や妙技」を“sublime”と言っているからです。
もっともこの文章は、主語が「意識」になっている、少しわかりにくいでしょう。
この本の副題は「意識という幻想」です。
ややこしいのですが、著者は、意識で構成されている〈私〉と意識以外のものも含む〈自分〉とを区別しているのです。
そしてこう書いています。
前意識の人間は〈自分〉でしかないのに対し、意識を持つ人間は、自分は〈私〉でしかないと信じている。人間は〈自分〉しかない段階から、見たところでは〈私〉しかない段階へと移行してきた。〈自分〉の段階では、行動は神々の声に支配されていたが、〈私〉の段階では、意識が自らすべてを支配していると考えている。前にも書きましたが、意識の誕生をとりあげているジュリアン・ジェインズは、「神々の沈黙」で、人間が意識を持ち出したのはせいぜい3000年ほど前だと言っています。
とんでもない話のように思えるかもしれませんが、この2冊の本を読むと、もうそれは確実なことのように思えてしまいます。
節子がいなくなってからのことを考えると、私にはそのことがとても納得できますし、まさに今、この2冊の本に出会えたのには意味があるとも思っています。
もしかしたら、節子がこの2冊の本を勧めてくれたのかもしれません。
さて問題は“sublime”、崇高なるもの、「生命を、その自由な流れに任せるような状況」です。
ノーレットランダーシュは、それについてもう少し書いています。
人との交わりのコンテクストでも、私たちは他人の目に自分がどう映るかを気にしないでくつろぎ、相手のために、そしてその相手とともに、いられる状況を探し求める。そうすることで、会話の中やベッドの上、はたまたキッチンで、自分をすべてさらけ出すことができる。私と節子は、この意味でお互いに「ありのままに生きる」関係でした。
互いの存在に臆することなく、ありのままに生きるという状態にあるときは、私たちは崇高な一体感を経験できる。
2人でいる時の、あの安堵感、充実感、至福感は、まさにsublime だったような気がします。
その時間がいま失われてしまったのかもしれません。
私は今も、すべてをさらけだす生き方を志向していますが、それが実現できたのは、節子に対してだけでした。
それが失われたことの空虚さは、やはり埋め合わすことはできません。
少しは近代人として、生きる努力をすべきかもしれません。
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