■節子への挽歌1740:家族に約束したかった未来イメージ
節子
人生はいろいろあります。
さまざまな話が毎日のように届きます。
節子も知っているKさんから、今朝、明るい話が届きました。
よかったと思っていたら、夕方、追伸が入りました。
私が「うれしいね」というお祝いのメールを出したことが、気になったようです。
お伝えすべきか逡巡しましたが、と前置きして、今朝の話の奥の話を伝えてきました。
お世話になって説明なしというのも道義に反するような気もしますので。
最後の一文は、こうでした。
家族に約束したかった未来イメージではないので、いささか悔しくはあります。勝手に喜んでお祝いのメールを送ったことを反省しました。
人生はいろいろあるのです。
Kさんのメールを読んでいて、「家族に約束したかった未来イメージ」という表現が気になりました。
そういえば、しばらく前に会ったHさんも、同じようなことを話していました。
そうしたイメージが壊れてしまうのが恐かった、とHさんは言っていました。
みんな、そうしたイメージを持っている。
でもそれができなくなってしまうこともある。
私もその一人です。
節子がいたら、いまとはまったく違う生活になっていたでしょう。
娘たちも、時々、そう言います。
しかし、それはどうにもならない。
節子がいなくなってから、もう未来のイメージは私にはまったく持てなくなりました。
未来が実感できないと言ってもいい。
未来を想像できる人は、生きている人です。
愛する伴侶を失うと、生きている実感が持ちにくくなってしまうのです。
KさんもHさんも、いろいろと大変な課題を抱えているようです。
しかし、彼らには伴侶がいます。
新しい未来のイメージがもうじき見つかるでしょう。
いや、未来のイメージを育てていくことこそが、生きていくということなのです。
私には、それがない。
ちょっとだけさびしい気がします。
いつかまた、生きられるようになるかもしれませんが、いまはまだこの状況にとどまっているしかありません。
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