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2012/06/28

■節子への挽歌1761:世界から生々しさが後退しつつあるような

節子
一昨日、湯河原の温泉街を少しだけ歩きました。
道は拡幅されて、歩道も整備され歩きやすくなりましたが、人通りは少なく、お店もかなりの割合でシャッターが閉まっていました。
バス停で街の人とお煎餅屋さんのご主人らしき人と20分ほど話しました。
閉まっている店が多いですね、というと、道がきれいになるにつれて、お店が閉まりだしたと教えてくれました。
たしかにそのようです。
それに少し歩いた感じでは、以前のような、親しみを持ってちょっと入ってみようかというお店もあまりありません。
節子とは時々、ここを歩きましたが、節子がいないせいかもしれませんが、なんだか違う街のようでした。

私の気のせいだとは思うのですが、節子がいなくなってから、東京も含めて、どこもかしこも、なんだかとてもモダンになってきたような気がしてなりません。
私の意識が変わったのかもしれません。
人間らしさや良い意味での猥雑さが消えつつあるように感じます。

節子は、どちらかと言うと、私よりはモダンが好きでした。
丸の内界隈が変わったり、六本木が変わったりすると、出かけていくようなタイプでした。
そのくせ一方では、自然の中の古民家も好きでした。
要はいい加減だったのですが、自分に素直だったとも言えます。
知識による先入観がなかったのです。
知識がなかったというと節子は怒るでしょうが、まあそんな感じもあります。
節子は、素直に、「良い」と感じたら好きになり、感じなかったら好きにはなりませんでした。
小賢しい理屈を振り回す私とは違っていました。
ただ惜しむらくは、そもそもの趣味があまりよくなかったことです。
節子が好むファッションは、私にはいささか奇妙な感じのものが多かったです。
これ以上書くと節子に怒られそうですね。

私は、最近のとてもモダンで、そのくせ装飾的な空間が好きではありません。
何かとても疲れるのです。
しかし、そういう空間に行くと、節子だったら喜ぶだろうなと思うことがよくあります。
テレビもデジタル化されて、画面がとてもきれいになりました。
節子はそうしたきれいなテレビ画面を見ることがありませんでした。
節子のいた頃には、わが家には大型テレビもありませんでしたし。
テレビで、実物よりも鮮やかとさえ思える観光地のドキュメンタリーを見るたびに、節子に見せてやりたいと思います。

世界はどんどん「きれい」になってきています。
私にはだんだん「ヴァーチャル」になってきているようにも思います。
世界から、生々しさが後退しつつあるように思うのです。
これは、私の生命力が弱まっていることの現われかもしれません。
現実空間とヴァーチャル空間がなんだか近づいているような気もします。
私が、ヴァーチャル空間に吸い寄せられているのかもしれません。
たしかにいまのところ、現実世界に私を引き止めておく力はありません。

2日間、自然の中で日常を離れてのんびりしていたのに、残念ながらあまり生気は蘇ってきていないようです。
それは当然でしょうね。
やはり1週間くらい、一人で山ごもりしないといけないのかもしれません。

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