■節子への挽歌1745:パルミュラ
節子
私の遺跡好きを知って、近くのSさんが、昔、NHKで放映されていた「未来への遺産」のDVDセットをプレゼントしてくれました。
とても懐かしい番組です。
私はこの番組で、パルミュラを知りました。
私が今一番訪ねたい場所が、パルミュラなのです。
それで早速、そのDVDのパルミュラの部分を観ました。
昔の映像なので、画質はあまりよくありませんし、テンポも実にのんびりしています。
しかし、それがかえって心を和ませてくれました。
今と当時では入手できる観光地情報が質的に全く違っているのがよくわかります。
もしかしたら、いまはテレビ画像が高質ので、現地に行ってもさほど感動しないのかもしれないと思うほどです。
昔は、こうした画像を見せて、エジプトに行こうと節子を誘っていたわけです。
節子は、遺跡なんて、泥の塊でしょうと冷たかった理由が少しわかったような気がしました。
たしかに、この映像だと泥の塊でしかありません。
あれほど焦がれたパルミュラも、あんまり魅力的には感じませんでした。
その一方で、その映像の前後に出てきたハトシェプスト神殿やルクソール神殿が実に魅力的に見えました。
ここは節子と一緒に歩いたことがあるからです。
映像の向こうにある現実の質感が得られるからです。
ちなみに、節子は泥の塊といっていた神殿に実際に立った時には感激していましたし、それ以来、泥の塊とは言わなくなりました。
何しろ節子はリアリストなのです。
体験すると、すべての現実が質感を持ち出します。
伴侶を亡くしてみないと、その喪失体験の質感は実感できないでしょう。
それは伴侶との別れに限りません。
相手の立場になって考えられても、相手と同じ質感を共有することはできません。
節子との別れで、私が学んだ最大の気づきです。
しかし、なぜ私は、古代の遺跡に行く前から、その質感を実感できていたのでしょうか。
そしてなぜ、今はそれが実感できなくなったのか。
それが不思議です。
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