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2012/06/22

■節子への挽歌1755:「よかったわね」

節子
今日は、成田に行ってきました。
若者の自立支援に取り組んでいる人たちと話し合うためです。
仕事ではありません。
そこに関わりだした人が、一度、来てほしいとメールしてきたからです。
私が行くことを知って、所長がみんなを集めてくれていました。
突然の訪問で迷惑だったかもしれませんが、少しは役に立ったかもしれません。

宮沢賢治の「雨にもまけず」とは違って、
私は、雨にも風にも負けながら、生きていますが、
賢治と同じように、
東に困っている人がいれば、行って、困らなくても良いよといい、
西に寂しがっている人がいれば、行って、寂しがらなくても良いよといい、
というような生き方をしたいと思っています。

「みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず くにもされず
そういうものに わたしはなりたい」
というのは、私にとってはまさに理想です。
最近、かなりそうした状況になってきているような気もしますが、まだまだ私欲と自我が強く、デクノボーと呼ばれることに幸せを感ずるところまでにはいけずにいます。
時に、自らの賢さや過去のことを顕示したくなるのです。
そうした自分が、時にいやになります。

人は、生涯に自らを理解してくれる人に、一人でも会えれば、幸せと言うべきでしょう。
自分を知っている人がいれば、人は安堵できます。
いくら有名になり、みんなに知られたところで、たぶんその幸せはやってこないように思います。
知ってくれている人は、一人でいいのです。

一人でも、自分をわかってくれているという確信があれば、小賢しい顕示欲などは生まれないでしょう。
節子がいた頃は、だれかに誤解されたりしても、あまり気にもなりませんでした。
時に、そうした気持ちが生まれそうになっても、節子がその邪念を吸い取ってくれました。
つまり、私の「自慢話」を聞き流してくれたのです。

今日、出会った人たちとは、たぶんわずかばかりでしょうが、心触れ合った気がします。
きっと何かが動き出すでしょう。
でも、帰ってきて、今日の話をする相手がいないのが、とてもさびしい。
節子がいたら、私の話をだまって聞いてくれたでしょう。
そして、私が話し終わると、最後に笑いながら言ったでしょう。
「よかったわね」と。
その一言が、もう聞けないのが、さびしいです。

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妻への挽歌09」カテゴリの記事

コメント

佐藤様

Patti です。
私も宮澤賢治の「雨ニモマケズ」は理想だと今は思います。
彼も最愛の妹を喪っている、西田幾多郎も幼子を喪っている、その喪失体験から
普遍的なものを後世に残している人たち。その多くの先達から学びます。
かけがえのない伴侶を喪ってこそ、心の深層にまで響くのでしょう。

禅の思想の「自利」から「利他」へ、自然に渡っていければどんなによいでしょう。
でも、簡単ではありません。「彼」という確固たる存在へのいとおしさ、その不在の
さびしさは私から無くなるわけはないのですから。
それでも、人間として自然と共に生き、この世とあの世は一体であると感じることが
出来れば・・・と思います。

以前、「安堵」と書きました。でも、本当の私の安堵は彼との生の中にこそありました。
「人のために時間を使う」「人の役に立つ」、利他とはかけ離れた世界にいたようにも
思えます。でも!私たちはお互いにお互いの時間を共有し、分け合い、理屈ではなく
お互いに無意識に役に立ちたいと思って生きていたのでしょう。
その存在がない今こそ、利他に生きるべきときなのかもしれないと思い始めてきました。
でも、一触即発いつ思いがあふれてくじけそうになるかわかりません。
すぐ行動できないことでまた自責の念に戻ってしまいそうなることもあります。

死ぬのは少しも怖くありません。彼が先に通った道を私も歩めると思うと、むしろ待ち遠しい。
ただ、その日まで生かされる自分を否が応でも見つめる時間があるのです。
杉本博司さんの言葉にあるように、
「人間は永遠に解明できない世界に産み落とされてしまった。
ただし、探究装置だけは備えられて」

出来るだけ早く私も旅立ちたい。でもそれまで私はどのように生きていくのか。
この苦しみは因果応報、自分の罪の報いではないかとも思います。

すみません。またも長くなりました。

Patti


投稿: patti | 2012/06/23 19:57

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