■「その先のない人」
最近、なぜか無性に腹が立っています。
その怒りの矛先は、実は私自身なのでしょうが、現象的にはあらゆるものに向いています。
怒りの中で生きるのは、それなりに辛いものがあります。
そのせいでしょうか、このところ、奇妙な不安感に襲われることもあります。
具体的に何かが不安なのではありません。
何かわからない、大きな不安感が襲ってきます。
こんな事はいままであったでしょうか。
それで、今日はすべての約束をキャンセルさせてもらい、少し自らの生き方を問い直してみようと思いました。
なぜ、これほどに腹が立つのか。
なぜわけのわからない不安に襲われるのか。
1日くらい考えたところで、わかるはずもありません。
むしろ、怒りと不安は、高まりこそすれ、おさまることはありませんでした。
でも、ちょっとだけこころに余裕が出来ました。
時に、立ち止まることは大切です。
少し逸脱して自分を見られたからです。
午前中、荒れ放題になっている近くの農園で雑草を刈りました。
息が切れて、注意しないと熱中症になりかねなかったのですが、身体的疲労は快く精神を癒してくれました。
午後は、数年前に読んだスーザン・ソンタグのエッセイを読みました。
なぜか数日前から読み直したくなっていたのです。
そのエッセイに、こんな文章がありました。
この文章を読みたくて、ソンタグを思い出したのだと確信しました。
2001年にソンタグが、エルサレム賞の授賞式で話した時の言葉です。
堕落が居座っているとひたすら驚くだけで、手をこまねいている人。これは、まさに自分のことではないか!
人間というものが、自分以外の人間たちに対して、どれほど陰惨で直接的な残酷な行為をしでかしてしまうものか、その証左を突きつけられても、幻滅するばかりで、その先のない人。こういう人たちは、道義的または心理的に大人になっていない。
ある年齢を過ぎたら、この種の無邪気さ、浅薄さ、ここまでの無知、好都合なだけの健忘症をかこって許される人は、誰もいない。
この言葉の背景にあるのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争であり、あるいはパレスチナの現実でしょうが、日本の現状にもまさに当てはまります。
あまりにも見事に重なります。
「その先のない人」といわれないように、もっと前に進まないといけません。
明日から、出直しです。
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