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2012/06/10

■節子への挽歌1742:三年之愛

論語に「三年之喪」という話があります。
当時は親を亡くした時には3年の喪に服したそうです。
その前提には、子供は父母から「三年之愛」を受けて育ってきたのだから、「三年之喪」は当然だとされていたようです。
ところが、ある時、親を失った弟子の一人が、孔子に問います。
3年間、喪に服さないといけないのか、と。
そこで孔子はその弟子に応えます。
「もしお前が、旨いものを食べたら美味しくて、良い服を着たら気持ちが良くて、それで何ともないのなら、3年の喪に服さなくて良い」と。
これは、最近読んだ安冨歩さんの解釈です。

安冨さんは、こう書いています。
もし本当に「三年之愛」を与えられていたら、何を食べても美味しくないだろう。音楽を聞いても楽しくないだろう。良い服など着る気もしないだろう。家にいても落ち着かないだろう。1年経って命日が来れば、また悲しみが新たになるだろう。2年経ったら少しは落ち着くかもしれない。そうすればそろそろ悲しみが治まってくるかもしれない。
安冨さんは、人情に逆らうことを強要するのは儒家の思想に反すると考えています。
私にはとても納得できる解釈です。

喪に服するのは、強要されるべきルールではありません。
むしろそうすることが、生き方を楽にしてくれるという意味で、支えてくれる仕組みなのです。
何を食べても美味しくない、何をしても楽しくない、気分転換などする気にもなれない。
それは、自然の心情なのです。
その期間は、人によってさまざまでしょう。
3年より短い人もいれば、長い人もいる。
そんな日は1日もない人もいれば、終わりがない人もいる。
人それぞれであって、それをとやかくいう話ではありません。
伴侶を見送った翌日に再婚する人がいても、咎められるべきではないでしょう。
その一方で、いつまでたっても、人生がたのしめない人がいても、おかしくなりません。

しかし、私が安冨さんの本を読んで、気になったのは、もしすべての親が、本当に子どもに「三年之愛」を与える社会であったとしたら、素晴らしい社会になるだろうと安冨さんがしみじみと書いていることです。
そのことには、異論はありませんが、万一、「三年之愛」を受けることができなかったとしても、「三年之愛」を誰かに与えることはできるのではないだろうかということです。
人は、愛されることで愛することを学んでいくのでしょうか。
必ずしもそうではなく、愛することで愛されることを学んでいくこともある。

安冨さんの本を読んで、私と節子はどっちがどっちだったのだろうかと考えてしまいました。
いまこれほど挽歌が書けるのは、節子から「三年之愛」を受けていたからなのでしょうか。
いつか安冨さんとお話したいと思います。

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