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2012/06/16

■節子への挽歌1746:相談するということ

節子
最近、ようやく「相談」の意味がわかってきました。
相談するということにおいて、解決策を得ることは、どうやら副産物に過ぎないことのようです。

私のところに、いまもいろんな人が「相談」に来ます。
時に一緒に解決策を考えることもありますが、多くの場合、解決策は相談に来る人のなかにはもうすでにあるのです。
そして私と話しているうちに、決意するだけのことなのです。
そもそも、「相談」を思いついた時に、その答もまた思いついているのです。

時に解決策が確信できなかったり、受け容れ難かったりする人もいます。
その場合は、その答(重荷)をシェアしてくれる人を探しに来るのです。
出来る範囲で、時には出来る範囲を少し超えてしまって、重荷をシェアするのは私の信条です。
時々、予想以上の重荷を背負ってしまい、私自身も厳しい状況になります。
しかし、そういうことを繰り返し行ってきたのが、私の人生だったのかもしれません。
むしろ、それを楽しんできた気もします。

ところが、最近、そうではなくなってきています。
楽しくないし、つぶれてしまいそうになるのです。
最近も、いくつかのシェアした重荷がうまくいかなくて、時に眠れません。
今朝も4時過ぎに目が覚めてしまいました。

どこが違ってきたのだろうかと考えました。
答は明確です。
節子がいなくなったこと。
つまり、私の重荷をシェアし、苦労を一緒に楽しんでくれる人の不在です。

悲しみや辛いことは分かち合えば、楽になるといいます。
人生を分かち合うことができれば、楽になるどころか、楽しくなる。
そして、喜怒哀楽のすべてが、生きる豊かさになっていく。
そう考えると、やはり、「人生を分かち合う」存在が、生きるためには不可欠のようです。
しかし、伴侶はいつかいなくなります。
もしかしたら、失われることのない永遠の「人生を分かち合う」存在こそが、宗教における神なのかもしれません。
そして、信仰とは、重荷をシェアしてくれる存在の創造なのかもしれません。

こんなことを書いても、まだ気分は不安に苛まれていますが、それもまた人生ですから、素直に受け容れなければいけません。
節子が乗り越えた不安は、こんなものではなかったのですから。
とりあえず、節子に拝んで、救いを頼みましょう。

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