■節子への挽歌1751:哀しいこともまた、喜び。
ある本からの孫引きです。
バイロン卿はこう言ったそうです。
「人生の最大の目的は感覚にある。たとえ痛みのなかであろうと、私たちが存在するのを感じることだ」。
哲学者のトマス・ネーゲルはこう語っているそうです。
「人間の経験に加わると、人生が良くなるような要因と、悪くなるような要因がある。しかし、その両方を取り去った場合、あとに残るのは単なる中立的なものではない。残るのはあくまでポジティブなものなのだ。」
最近、こうした言葉を受け容れられるようになってきました。
少し前までは、理解さえできませんでしたが。
この2つの言葉を引用しているのは、私と同世代の心理学者 ニコラス・ハンフリーです。彼は「ソウルダスト」と題した最近の著書で、こう書いています。
多くの生物は、「そこに存在すること」を好むように進化してきた。「そこに存在すること」を好むとは、意識を持つということです。
意識がなければ、「そこに存在すること」にも気づきません。
「そこに存在すること」に気づくには、快感も痛みも有効です。
ネーゲルは、そのことを語っています。
では、なぜ多くの生物は、「そこに存在すること」を好むように進化してきたのか。
それは、それが楽しいからです。
楽しいという言葉が適切でなければ、「生きやすくなる」からです。
そこに意識の目覚め、あるいは自己の始まりがあり、それこそが生きる動きを作動させる。
そして、自然淘汰の試練に残ってきたのです。
それこそが、エラン・ヴィタールです。
生の躍動、生きる証。
節子を見送った痛みや悲しみは、エラン・ヴィタールにつながっている。
これまで、そう考えたことはありませんでした。
しかし、ハンフリーの本を読んで、何となく納得できるような気がしてきました。
それは大きな発見です。
節子は、いつもポジティブ・シンキングの人でした。
哀しいこともまた、喜び。
そう思えば、少しだけ世界は広くなるような気がします。
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