■節子への挽歌1748:蕎麦団子
挽歌1748の続きです。
玉里のおそばを食べながら思い出したことがあります。
同じ茨城の谷和原村城山の里まつりに節子と一緒に行った時のことです。
その時のことは、私のホームページに書いています。
そこに、こんな文章が残っています。
蕎麦打ちに女房ははまっていました。思い出したのは、その後日談です。
私と違い行動派の彼女はそば切りの手ほどきを受けていましたが、これでまた我が家のメニューが増えそうです。
当日、お土産に蕎麦粉をもらいました。
数日後、それで蕎麦を打ち、蕎麦を作ろうということになりました。
ところがです。
出来上がったのは、蕎麦というよりも蕎麦団子でした。
見ていた時には簡単そうでしたが、やってみると難しいのです。
以来、わが家では蕎麦うちは2度と行われませんでした。
つまり、わが家のメニューは増えなかったのです。
節子はわりと器用だったともいますが、蕎麦だけはだめだったようです。
ちなみに、城山の里まつりに節子と一緒に行ったのは、節子の手術後です。
私は、地方によく出かけていましたが、基本的には一人で行っていました。
しかし、節子が病気になってからは、できるだけ節子と同行しました。
節子が元気な時にこそ、そうすべきでした。
でもその頃は、お互いになかなかそんなことには気づきませんでした。
節子が胃の摘出手術をし、一時、回復の兆しを見せていた時が、私たちが一番行動を共にしていた時期です。
その時期には、さまざまな記憶が凝縮されていますが、普段はあまり思い出しません。
意識的に蓋をしているようにさえ思います。
その理由も、実はそれなりに思い当るのですが、いつかまた書こうと思います。
しかし、何かがきっかけになって、記憶がよみがえってくると、どっと記憶があふれてきます。
意識や記憶は、とても不思議です。
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