■責任をとるということ
沖縄全戦没者追悼式での野田首相のスピーチをテレビで見ていて、大きな違和感を持ちました。
私には、そこに存在することが最も相応しくない人に見えました。
せめてもの救いは、広島や長崎でなかったことですが、まもなくその季節も来ます。
古代ローマの歴史家ツキディディスは、「結果の予測しがたい戦争を起こせば、これを立派に戦い収めることはまさに至難となる」と述べています。
その言葉を思い出します。
原発再稼動や原発輸出は、私には、まさに「結果の予測しがたい戦争」にほかなりません。
最近のように、原子力発電の実態がかなり明確になってきている状況の中で、いまなお原発を推進しようとすることの無責任さには驚きますが、にもかかわらず、野田首相は「責任を取る」と公言しています。
「責任を取る」という言葉は、あまり意味のある言葉とは思えませんが、責任を語る人が、だれのために活動しているかを明らかにしてくれます。
野田首相の上司は、国民ではなく、産軍官複合体を構築している「システム」です。
彼には、国民の生活の安寧など眼中にないでしょう。
彼が「責任」と言った時の相手もまた、国民ではなく、「システム」なのではないかと思います。
上司である財界人や財務省官僚は、国民を犠牲にしてでも経済を守れと彼に命じているように感じます。
小泉元首相が、郵政民営化で演じた役割とどこか似ています。
いずれも、国民の生活は収奪すべき市場でしかないのです。
作家のスーザン・ソンタグは、9.11事件が発生した後、狂気のイラク戦争を国民に呼びかけたブッシュ大統領を、「ロボット状態のアメリカの大統領」と呼びました。
最近の野田首相は、私にはまさに、ロボット常態の日本の首相に見えてきます。
さて、責任です。
社会が現代ほど複雑になってくると、責任の取り方も簡単ではありません。
多くの場合、人は組織や社会的立場によって、その役割を果たすようになってきます。
そして、個人では手におえないような、社会との関わりの中での新しい責任が発生します。
いわゆる「任務責任」です。社会的責任と言ってもいいでしょう。
ここで重要なのは、その責任の内容は、どちらを向くかでまったく違ったものになることです。
上司の命令に対する責任でさえ、命令を忠実に果たすことではありません。
ロボットは、ただただ命令を忠実に果たせば良いでしょう。
しかし、人間は違います。
第二次世界大戦後に行われたニュールンベルグ裁判で、「上司の命令に対する服従は違法性を阻却しない」という、いわゆるニュールンベルグ原則が認められました。
つまり、責任は状況に応じて、反対の側からも吟味されるということです。
「責任を取る」などと軽々に語ってほしくありません。
その前に、会場の沖縄平和祈念公園に残されている多くの人たちの手記を30分で良いですから、読んできて欲しいものです。
責任を取るとはどういうことか、少しは考える気になるでしょうから。
人が大切にすべきことは、一つしかありません。
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