■節子への挽歌1752:心理的ゾンビ
ハンフリーの「ソウルダスト」のことを続けます。
ハンフリーは、意識こそが人間の生の意味を変えたといいながら、生物は、しかし、意識など持たなくても生きていけると書いています。
オークの木やミミズ、蝶に生きる意志があるなどとは誰も思わない。これらの生き物は、必要に応じて、あらかじめプログラムされている多種多様な生命維持の仕方に従って本能的に行動する。人間もたいていの時間はそうしている。たしかにその通りです。
意識を持たないまま生きている存在を、ハンフリーは「心理的ゾンビ」と呼んでいます。
ゾンビは「動く屍」ですから、あまり適切な表現とは思いませんが、彼は、意識のある生と意識のない生の区別に関心があるわけではなく、意識そのものの正体に関心があるのです。
彼の結論は、意識こそが世界を輝かせているということであり、世界は私たちの意識が創りあげた幻想であるとさえいうのですが、それはまた書き出すと長くなるのでやめましょう。
それにちょっと私には理解しかねる部分もありますし。
それはともかく、ハンフリーは、生きているから意識があるのではなく、意識があるから生きている主体、自己が生まれると言います。
昨今は、あまりに「生きていない人」が多いと、私はつくづく感じていますから、この考えにはとても共感できます。
こう考えることによって、生きるという概念が動き出すといってもいいでしょう。
最近、私も「意識」に関心を持って何冊かの本を読んでいます。
新しい気づきはたくさんあります。
本を読みながら、自分の生き方につなげて考えるようにしていますが、この本を読んで、ハッと気づいたことがあります。
もしかしたら、私も心理的ゾンビになっているのではないか。
たしかに、節子がいなくなってから、私の生きる意欲は萎えてしまい、好奇心は後退し、先行きを考える発想がなくなり、ただ淡々と時間を消化しているような気もします。
生きることに躍動感はなく、死ぬことにさえ、生々しい関心はありません。
これは、まさに私が嫌悪しているゾンビ的な生き方ではないか。
ゾンビになってしまっては、節子を愛することさえできなくなるでしょう。
意識次第で、世界は一変する。
それがハンフリーの主張です。
本当に一変するかどうか。
問題は、その一歩をどう踏み出すかです。
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コメント
佐藤さま
今回の挽歌を読ませていただいて、僕も妻の死をきっかけに心理的ゾンビになってしまったのだなと感じました。
生きる気力を失いました。
物事への関心、好奇心も無くなりました。
未来の希望も失いました。
楽しさや嬉しさという肯定的な感情とも無縁になってしまいました。
一日一日をただやり過ごしています。
もう何もかもがどうでもいい。
残る人生が一日でも早く終わりを遂げること。
僕の望みはただそれだけです。
自分の死の瞬間を想像すると癒されます。
ようやく解放される。
伴侶のいない生き地獄から解放される。
その日が来ることを心待ちにしています。
明後日は妻の3回忌法要です。
亡くなって2年が経とうとしているのに、未だに僕の涙は涸れません。
投稿: ぷーちゃん | 2012/06/21 16:47